コミュニティについて思うこと

家族、学校、クラス、クラブ、サークル、職場、ご近所付き合いは以前からあるけれど、インターネットを介してSNSグループや、オンラインサロンなど色々な形のコミュニティが増えてきて、選択肢が本当に多いと感じる。

このコミュニティもある程度分類できると思っていて、例をあげてみると

①生きるために必要不可欠なコミュニティ:家族、職場

②人生のあるライフステージにおいて、不可避なコミュニティ:学校、近所付き合い

③自分の表現活動の場としてのコミュニティ:サークル、SNSグループ

①、②は結果として所属するコミュニティなので、自ら選んで所属するわけではないものが多い。つまり、望むと望まざるにかかわらず、基本的に所属せざるを得ないコミュニティだと思う。(もちろん、回避できないわけではないけれど、それ相応の努力が必要だ)

③はそれとは異なり、自分の意思を持って「選択」することが基本的に自由なコミュニティだと思う。

個人的には、属するコミュニティはある程度数があった方がいいと思っている。というのも、あらゆる人に人格があるように、あらゆるコミュニティにもそれぞれの性格が形成されており、人-コミュニティの関係には相性があるからだ。

その意味において、選択の自由がある③のコミュニティは非常に重要だと思っている。

家族や職場で生きずらさを感じている人が趣味のグループで自分らしさを発揮できるパターンが増えてきていると感じている。これはインターネットの恩恵が大きい。

インターネット以前では、家族、職場以外のコミュニティでも、他とは違う自分を表現することが難しかったのではないかと思う。というのも、新たなコミュニティに入るにも既存のつてを利用する必要があったり、また、他のコミュニティで異なる自分の姿を見せると、地理的制約もあって、既存のコミュニティまで噂が簡単に広まってしまう可能性があったからだ。

一つのコミュニティでの影響が他のコミュニティにまで及んでしまうと、自己表現が途端に難しくなってしまう場合があり、それは即座にコミュニティに所属するモチベーションを下げることにつながる。

「あの人いつもは地味なのに、あっちのコミュニティでは派手なタイプらしいわよ。」

なんていうのは言われて嬉しいものではないだろう。。人と人との関係はあくまで自分ありきの価値観を押し付けがちなので、他人の持つギャップを受け入れ難いし、ギャップを作りたくない面があるのだと思う。

インターネット以降はそういった、新たなコミュニティを探す手法の制約であったり、地理的な制約が極めて小さくなったと思う。趣味のキーワードで検索すれば、いくらでもグループが見つかるし、オンライン上で完結するようなグループだってある。こういった関係は既存のコミュニティとある程度隔離されていて、新たなコミュニティで新たな自己表現をすることに対する安心感が大きくなる。

しかしながら、自分らしさの表現を開拓して気づくのは、「自分らしさ」が一括りにできないことだ。例えば、僕の場合、音楽が好きな自分、語学が好きな自分は自分の中に同居しているように感じるのに、音楽をきっかけにたどり着いたコミュニティと、語学をきっかけにたどり着いたコミュニティは別々だ。そして、それぞれのコミュニティで築いてきた「自分らしさ」は混ぜることが難しい

これは、それぞれの自分らしさというのが、そのコミュニティに所属するメンバー、環境と自分自身が相互に反応しあって形成されたものだからではないかと考えている。別々に形成した自分らしさは、そのままでいいし、混ぜる必要がない。

なぜ「混ぜる」なんていうことをを持ち出したかというと、昨今、SNSが普及するにつれて、SNS上に持っていた自分の人格が集約されてきたと感じることが多くなってきたからだ。

例えば、FaceBookの実名登録推進であったり、Twitterのフォロワー拡大を流行とした流れ。SNSで顔が認知されるようになると、各コミュニティで発揮していた自分らしさが途端に不自由になる。どのコミュニティからも、一つの人格として目についてしまうからだ。するとみんなにギャップを感じられないように、中途半端な表現しかできなくなってしまう。きっとその中途半端さ自体もギャップとして映ってしまうのだろうけど。

複数の自分らしさを求めて、自由になるために使ったSNSが、今は自己表現の足枷になっているのは皮肉なものだと思う。

いかにインターネット上に自分らしさを棲み分けさせられるか。僕は今までもだし、きっとこれからもそれを模索し続ける。

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