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日々是妄想: お勉強振り返りの備忘録

只今、清澄白河にて近代美術史についてお勉強中。
美術が如何に世界情勢と絡まっているかを今更ながら実感中。

パフォーマンスがアートになる時って?

パフォーマンスアートと聞いてまず思い浮かんだのはジョン・ケージ4‘33’‘とオノヨーコのCut Peaceだった。あとはヨーゼフ・ボイスくらい…
時間、空間、パフォーマー(アーティスト自身)と観客(或いは居合わせた人)によって生み出される、即時性と一過性が特徴。
絵画という表現媒体からの脱却、身体性を芸術に持たせる或いは芸術を身体によって表現する。
表現の自由を如何にして獲得するかの試行錯誤。
基本は一期一会、再現性はパフォーマンスによっては制限される。
権力との関係において、芸術が反体制であることは時としてとても重要。何故なら芸術は生活に根ざすから。という、ざっくりとした理解が出来ただけマシということに…

女性アーティストによる過激とも取れる表現について

マリーナ・アブラモビッチのリズム0(塩田千春はこの人の生徒だった)とオノヨーコ、カットピースなど、生身の肉体をメディアとして、使うパフォーマンスは衝撃的である。精神的、肉体的苦痛を伴い、トラウマになりそうなことを何故?なんでここまでする?と思ったりもしたがよくよく考えてみると腑に落ちた。
これは程度の差こそあれ、女性という立場が受ける日常的な暴力を可視化したものではないか?
主体が黙って受け入れる状況であればエスカレートすることは明らかで、肉体的、精神的苦痛を伴うパフォーマンスは、社会における当時の女性の立場を可視化したものと考えると腹落ちした。確かにそれはフェミニズムの文脈にあると理解した。
傷つけられる弱者の立場と傷つける側にある欲望。それって社会そのものが常に隠し持つ構造でもあると気づくことができたのは良しとする(苦笑)
性善説は信じがたいと改めて思ったりもした。

パフォーマンスがアートになる?

観ていて気持ちよく癒されるものだけが芸術ではない。パフォーマンスは身体性が伴うだけに、時に衝撃的でイタい場合もある。目を背けたくなるものもあるけど、直視し難い理由を掘り下げ考察する意味は確かにある。とりあえず苦手意識はそのまま持っていようと思う…

帰りに銀座に寄って資生堂ギャラリーに。

10/15まで。銀座には懐かしさが今でもある。

“石内都 初めての東京は銀座だった”
綺麗なプリントの写真を観てとてもホッとした。この人のブツ撮りは本当に美しい。そこに写されているものから、静かにストーリーが語られるようで思わず立ち止まってしまう。
自分の体験と記憶、銀座という街の持つ記憶をものを通して語る写真は、どことなくエモーショナルでノスタルジックだった。確かに写真も瞬間を写しとるが、プリントされ展示されることで、観る側は落ち着いて自分と向き合い会話することができる。そこがパフォーマンスとの大きな違いと思う。パフォーマンスの瞬間は常に変化し留まることがない。故に感性を反射神経に任せるしかなくなるのがムズイ。

一度だけ資生堂パーラーで食べたオムライス、とても美しく美味しかったことを写真を観て思い出した。

オムライスと言われて必ず浮かぶイメージを裏切らない。

レストランのシミひとつない白いテーブルクロス、磨き込まれた銀のカトラリーを手に取った時の感触。窓から差し込む明るく柔らかい陽射し。
また食べたい😋

@資生堂ギャラリー
芸者衆からの着物で作られたスタジャンが素敵💓



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