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今さらですが、私アスペルガーです。昨日のお客様はノンバイナリーです。普通っていったい何なんなんだ。多様性が騒がれる今から22年も前から、私は「パーソナル」スタイリストやってるんだけど。

ダイバーシティ&インクルージョンの時代、セクシャリティーも、発達性障がいも様々な種類、それぞれ微妙に違う多様な個性があるよね、と認知されるようになるくらい、世の中が変わってきてる。

人の価値は人との違い。このことをず~っといい続けてきて22年。こんな世の中がくる以前から、私はずっと、人々の多様性にファッションを通じて寄り添ってきた。それがしたくて、そういうひとが必要だから、スタイリストに「パーソナル」をつけ新しい職業を創ったンだから。
しかし、、パーソナルスタイリングの本質は、この職業が浸透してきた今でも、まだ、ちゃんと伝わってはいない気がする。

多様性を認める、ということは、性別、年齢、障がい、国籍などの外面の属性や、ライフスタイル、職歴、価値観などの内面の属性にかかわらず、それぞれの個を尊重し、認め合い、良いところを活かすこと。
服装からそうした素の個性が垣間見れたら良いと思うと同時に、服装というものは、顕著にその人の性別、年齢といった属性を表しやすいぶん、見た人が勝手に自分のものさしで判断の基準にしてしまうものでもある。

そう、だから簡単なものではない。少なくとも10年ほど前までは 
「素」を表現できず 隠さなくては生きていけないような社会でもあったので、顧客と何度も一緒に泣いたこともある。

多様性の言葉だけが広まっても、人との違いで苦しみ、生き辛さを抱える人々にとって、広がる認知と平行に、ほんとうに不便なく、精神的にも良好で、認められる時代になったんだろうか。また、多様性を受け入れ、マインドに服をのせ、真に耀かせるスタイリストはいるんだろうか。

時には服装が、そのひとの支えや癒しになるような力もあることを伝え、人生を共に伴走していくような存在であることを 形にしようと汗を流すスタイリストは一体どれほど存在するのだろう?私自身、まだまだ修業・道半ばかもしれないけど、22年間パーソナルを追及してきたことは事実だ。

昨日も、自身の性に悩み、生きてきた環境や親子の関係に悩み、素で生きたい、そして過去の箱から出たい、自信を持ちたい、というお客様のブランディングであった。セクシャリティーは私は言い切るものではないが、今時点ではノンバイナリーなのかなと。

ちなみに昨日コンサルティングをうけたOさんにした質問に、以下の写真が一枚だけ送られてきた。
「ビジュアル的に、参考にしている、もしくは気になる芸能人やミュージシャン、タレントや文化人、アーティストなどはいますか? ビジュアルではないが,自身のセンスにひっかかる存在、など思い当たる人がいらしたら教えてください。」

私も大好きなジョナサン。

Oさんが、この画像に添えた言葉は、こう。
「ん?ってなってもおかしくないのに、めちゃくちゃ可愛いと感じます。

この一枚から感じ取られることは宇宙的にあり、そして繊細。
ここにノンバイナリーと書いてあったからそう思ったわけではなく。

昨日のコンサルティングの様子。

オミクロンの広がりで、昨日はZoomコンサルティング。こんな感じでPSの前に座る。案件によってはシンセカイ(パートナー)も同席することも。

他のスタイリストも沢山見て調べてみたが、どうしても行く気がしなかったという。単なる見かけのビフォーアフターなら、スタイリストのセンスを押し付ければ誰だってそれなりの「見かけ」になることは可能だろう。パーソナルスタイリストは増え続けるが、数ではなく質を問われる時代、サービスを提供する側の進化・深化なくしては、求められる存在になれるはずがない。
人々の服を扱うということは人生を共に考えるという「重さ」もあることを忘れてはならないんじゃないか。その重さゆえに、心から遣り甲斐と楽しさがある、パーソナルスタイリストはそういう職業なのだ。

この仕事を始めて22年、近年のように多様性が騒がれるようになる前から、私の元には生き辛さを抱える方々からの相談が耐えたことはない。所在を知られたくない、とスタッフにも極秘で、個別で行ったカウンセリングも多く、ご自宅でシークレットだったご家族に、私からお伝えしたこともある。本人がカミングアウトしていくことを手伝い、家族の心も受け止める。

なかには 自分の性別がわからない、どっちだとも考えなくない、でも暮らしていくには、性別どちらかを決めないと、トイレひとつ困るんです。だから政近さんに自分の性別を決めてほしい。もう自分はどっちだっていいんです、と泣かれたこともある。

発達性しょうがいで仕事が続かない、人とのコミュニケーションがとれず「コミュ障」と囁かれ、幼いころから虐めが耐えなかったというSさん。自殺するまえにレスキューをぐぐっていたらたどり着いたという。
「死ぬならせめて綺麗な姿で死にたい」。

稀な性質を持ちながら、家庭環境も劣悪、夜の仕事につき、お金だけはたまったMちゃん。心は満たされない。愛に飢える背景には、一番身近な家族に愛されてこなかった闇がある。誰かに愛されたい、服がよければ愛されるのではないか?幼少期、お金がなくてボロボロの服を着ていたこともトラウマになってしまうのだ。

服ですべてを補えなくとも、ファッションレスキューという社名に惹かれて訪れる人々の闇を、わたしは受け止めていく運命にあった。

この場所で多くの方々の人生を聞いてきた。沢山の笑顔にも涙にも触れた。今はZoom中心で行っている。


10年前くらいまでは、今と比べものにならないほど、ジェンダーフリーも発達性障碍も市民権がほぼない、苦しい状況だった。こうした家庭環境についても話をする場もない。多くは心に沈めたまま、別の自分を生きようとしてしまうのだ。

こうした事例が他人事ではなく受け止めたいと思うのには、自分自身がアスペルガーであり、ADHDも混じっている、かなりの生き辛さがあった人間だからなのかもしれないなと。

結婚した夫もADHD。なかなかのツワモノだ。社会の一般的常識からは大きく外れ独自の世界を生きている。(なので別名シンセカイ・笑)

カメラマンでもある彼の作品は心を打つものがある
365日、移り行く自然を撮った作品。カレンダーにでもするかな。
ま、こんな感じで人も写すし新聞の連載用も撮ったりする。カメラマンでありアーティスト、音楽・ギター弾き・バイク乗り、一応ビジネスパートナー。


生まれた息子も典型的なアスペルガー。生まれて間もなく手に取ったクレヨンで絵を描き始め、唯一の腕の力で、職業にまで結びついた。今は
テレビアニメ作品の作画監督をやっている。もちろん、こうなるまでの彼の人生は、ほんとうに大変。壮絶。このことについては、また別投稿で書いたほうがいいだろう。長くなりすぎる!

息子の作品の一部 手描き 鉛筆 勤める寸前に書き残したもの
7人の侍

アクが強く、生き辛さの塊のような家族で唯一、長女だけが、こうした傾向が見られない「育てやすい子」として生まれてきた。

娘が小学生のときに書いた家族。きちんとわかりやすく描いている。

そんなリアルな人生経験は、この時代になって特に、少しは人さまのお役にも立てる、気持ちが少しはわかる、具体的にどうしたいいのか、などのアイデアも、苦しんできた分、経験上滲み付いているということが、はなす人に安心感を与えるのかもしれない。
私自身、この人生でなければ パーソナルスタイリスト、という概念を新しく職業として創造することはなかった。

発達性障がいという言葉もない時代に、完璧を求める母親からしたら私は宇宙人。忘れ物の嵐・自分の部屋の片づけができないような私は、ただのポンコツだった。遊び疲れて田んぼの稲の上で寝てしまう、「普通はそういうことしないでしょ」と怒られる。「おねーちゃんは何でもできるのに」、という言葉。勉強ができ、容姿端麗、親の言うことをソツなくこなす姉と比べられてはアホ扱いだった。

お洒落に抜け目なかった母・優等生の姉・わたし。宇宙人?

変わった性質+体も弱く、割と重度な喘息もちで生命力が薄かった私。そのことで母の機嫌も度々いらいらさせた。
それでも幼いころから、スポーツだけは万能だった。

しかし体が弱かったため、運動会での花形リレー選手に選ばれても、発作が出ては、走ったら死ぬとドクターに言われること数回。点滴片手に、「死なないから走らせて」と泣いた自分。ここであきらめたら、自分は自分じゃないと、、運動は自身のアイデンティティーを支えるものだったのかも。

だから、体操服やジャージには、ちょっと異常なほどの執着があった。スポーツウエアに着替えた自分は、持ち味を発揮することができる、たとえ病気でも、走っているときは、もやもやな思いを忘れることができた。

ジャージへの執着は今でも強い。全身アディダス。
ジャージはアイデンティティー
デニムとあわせれば更に、アイデンティティー(デニムについては別投稿します)

思春期になり、装いで鬱憤を晴らすような行為も、今思えば自分の精神を守る行為。ヤンキーにはじまり、長いスカートをはいてみる。聖子ちゃんカット風に校則ではNGな部分パーマをかけ、ちょっと自分が強くなったような気になる。ヤンキーになって世の中に文句がいいたいのでもなく、人と自分は違うのに!という叫びのようなものだったんだろう。

しかしあるとき、自分を表現したつもりで装っているはずが、割と皆が同じことに疑問を持つ。進学校だったので、多くは「まじめ」スタイル。こことはかぶらない。そこじゃないある少数派とはいえ、一定数の皆と自分は同じだった。

結局、誰かを見て、ヤンキーを真似しているだけの自分。

NHKラジオでも、この話をさせて貰ったが、ある日すべてが嫌になり、スカートをぶった切ってミニスカートで高校にいった。今では当たり前のミニスカート。ひざ上で制服のスカートをはく発想は、当時皆無だった。ましてや広島県福山市という田舎の高校。先生たちはびっくり仰天、ミニスカートを叱る理由は校則にはなく意表を付かれた行為だったのだろう。

「政近 おまえの頭はどうなっとるんじゃ、悪いこといわんけぇ、普通にしとけ」。

普通、、

そのころの、ちょっとお洒落に興味がある高校生といえば、聖子ちゃんカットで部分パーマ。ヤンキーはそれを茶色くするかんじ。カールで髪をなびかせ、まぁそれがいちばんモテルわけだし。

そんななか、私は髪を自分で刈り上げ、これ以上は切れないほどのショートカットにした。刈り上げショートカットにミニスカート。真っ赤な口紅をつけて学校に行く。
「政近 お前 人でも食ったんか!」⇒ 先生。
「なんで普通にしとられんのんじゃ!」

普通、、、、

ちょうどコムデギャルソン(川久保玲)とワイズ(山本耀司)が活躍しだしたころ、彼らのクリエーションと自分のマインドがリンクする感覚を、体操服以来、いやそれとも微妙に違う新しい「感動」だった。自分のマインドとの一致、表現してみたいという衝動。高価で買うことはできなくても、ショーウインドウに飾られたそれは、私の魂を振るわせた。

川久保 コムデギャルソン この写真集はあの世まで持って行く
耀司 最近見たテレビで。尖ったところは今も健全

アパレルを営む父の元で育ち、小学生のころからパンタロンにチューリップハット、お洒落は身近な環境だったとはいえ、表面的なものに過ぎず。服に人生を変える感動や衝撃があるなんて、夢にも思ってはいなかった。

周囲が大学受験に励みだす時期に、自分の頭のなかはファッションしかなくなった。大学進学や体育の先生への道など、なんとかなりそうな進路を一切断ち切った。
「それだけはやめとけ,普通に短大くらいいっとけ」という先生の声に耳を傾けず。

普通、、、、、、まだ普通をいうんか!!

単なるファッション好きを超えた服とのリンク。自分のアイデンティティーと繋がった高校時代。ミニスカートと刈り上げ、黒の衝撃(川久保&山本)との出逢いは、パーソナルスタイリングの概念を構築していく原点になったとおもう。

ギャルソンは今も日常。
ファッションショー観覧時も、ギャルソンを着ることは多い。ただ、ハイブランドをそのまま着ることは今はない。ハイ&ロー ファストファッションともあわせる。ちなみにこのピンクのインナーはユニクロ。プロカメラマンに声をかけられて撮られているところ。
息子は「耀」という。山本耀司さんから一文字頂いた。耀司の気概を纏っているようにも思う。
tae ashida ファッションショーにて


自分の道を見つけるまでの17歳まで、母や先生が思う「普通」から大きく外れ、世間が評価する「いいこ」にはまらない私は何かと生き辛かった。
周囲にあわせようとしても、つい本音を言ってしまう。何かに集中するとほかの事は全部忘れ、興味がないものはオールスルー。発達性障がいなどという言葉もない時代に、多くに否定された経験は、逆に今も生きている気がする。まぁ 反骨にはなるわな。

28歳になる長男も発達性障がい・アスペルガー君。30年連れ添ってきた夫もADHD、唯一その傾向がない長女がいうには、この家族のなかで育ち、いちばんしんどかったのは自分だという。うちの家庭では普通なほうが、よほどしんどい。何者かにならなきゃいけないような、何かを追求しないと駄目なような空気が娘を苦しめる。そんなつもりなんかなくてもね。

変わっているほうが普通な家族。世の中の一般的な家庭の雰囲気とはまるで違う!と、長女に数回泣かれたこともある。多様性を認めることは、娘にとても試練であり、私にとっては、自分とは性質がまるで違う娘から学んだことの発見や尊さは計り知れないものがあった。
よくもまぁ こんな宇宙人揃いの家庭の中で公務員を目指し、小学校からの夢をかなえたものだ。親ばかといわれても、そこはほんと、凄い。私が彼女だったらそんなことできたんか? 絶対無理や、、、

運動会で踊るダンスの練習風景。本当にちゃんとやるひとだ。

アスペルガーの私・ADHDの夫から生まれた二人はアニメ作画監督を務める長男と小学校教員の長女。小学校のとき、二人の担任だったある先生に、こういわれたこともある。
「お父さん、おなじひとですか?」⇒ いやこれまずいでしょ。笑
「お兄ちゃんみて、親がどういう育て方してるのかと正直思ってましたが
妹さんを見て、親のせいじゃないってわかりました」的な。
⇒ まぁ10年前なんてそんなもんだったとおもう 先生正直や、、

周囲がどう言おうが、多様性のリアル・本質・日々おきる事件への対応、対処、すべてがぐぐってもでてはこない、壮絶で愛おしい日々だった。

長男 ファッションショーに共に出向く ショーを見るのは嫌いではないという。
長女 小学校のころからの夢をかなえ、先生に。お洒落も好きだという。


そんな人生に、もう 胸を張ろう。

子供たちも、凸凹な家庭の中で立派に自分らしく、育ってくれたのだし。

自分自身の生き辛さ、また、そうした性質を引き寄せて出会ったとも言える夫、凸凹を家族で補い合いながら、衝突し励ましあって今が在る。この家族だから良かったことも大変だったことも全部を受け入れてこその、ダイバーシティ&インクルージョン。体感してきた日々は何ものにも変えられない大きな財産になった。

こうした経験が、パーソナルスタイリストという職業を生んだし、現代になってより、深く花開いている気もする。
ファッションとマインドの追求を始めたのも、背景あってこそであり運命なんだろう。家族だけではなく、出会ってきた沢山の顧客が、「それでいい、それ(が)いい」を証明してきてくれたこと、共に悩み、共に表現してきた22年が教えてくれた、真の多様性。

改めて、自分の過去のことも書き遺そうと思えたのは、昨日いらしたお客様のOさんとのセッションを終えて、まず自分が開示・と思ったからだ。
Oさんが 男らしくでも女らしくでもなく、Oさんらしく生きる、そのことで同じ悩みを持つ多くの人に勇気を与えられたらいいと思う。
Oさんも、そのことを希望にすると、力強くやさしい満面に笑みを見せてくれた。

私とはなすことで、自分の箱を出て、かけがえのない素の魅力が、世の中に伝わり、影響力を持っていってくださればいいと願う。
実際に服を調えていくことで「自己表現」し
見ればわかる存在感や説得力を身につけ、世の中にインパクトをもって
発信していってもらえたらと。
表現力とはビジュアルだけではなく、こうした文章を書くなども同じこと。
文章表現力があるOさんはきっと、自らの体験を書きとめ、唯一無二な発信ができると思う。

そうしたほうがいいよ、とコンサルティングした際
「考えてもいなかったけど やります!今は、迷ったときはやろう!って思ってます!」というお返事。

Oさんはきっと、これからの世の中のリーダーになるだろう。
私はOさんの未知なる可能性を共に開かせていく。

Oさんは、こうも言った。

「自分と関わることで、政近さんにも何かしら良い影響があるように私も頑張ります」と。

すでに影響を受け、こうしたアクションを起こしていることが、事実。
これだけ書きたくなった、伝えたくなった、という希望。
そんな晴れ晴れとした気持ちが伝われば、幸い。
そして 私は過去も今もこれからも 多様性・パーソナルを追求していく。
マインドが服を着る、という新しい概念を浸透させていくよ。

ちなみにこの画像を使ったのにも意味がある。ヴィスコンティー ベニスに死す。わかるひとには、わかるはず。

切なく官能的で美しい映画 伝染病、、も現代とかぶる面がある

そして、6時間弱、ぶっ通しでコンサルティングしたら、愛猫ルークが
おこ、であった。笑

おこ顔ルーク。





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