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私が私であることの境界線は、「自力でトイレに行ける」ことだった。

消化器外科の病棟で35歳はダントツの若手だった。同じ部屋の人も80歳以上100歳未満の患者さんたちが多かったように思う。ふだん、会う機会の少ない人たちだ。当時在籍していた会社では35歳で中堅。下手したら年下が多い環境で日々、年上としての何かを背負っていたため、急に「若い若い!」と言われることが気恥ずかしかった。

私は4人床の部屋にいた。高齢の患者さんたちで認知症のあるひとが多かった。ふと隣のベッドで看護師や家族との会話が聞いていると、明らかに事実と異なることを話していたり、自分が病院に入院していることが理解できずに、別の場所だと思って過ごしている方もいた。

実家では長い間、主に母が祖母の介護をしており、それを近くで見てきたので、当時を思い出して懐かしさもあった。「あ〜違うんだけどな〜またいってる」と慣れっこな部分もあり、多少うんざりしていた。

そんな方たちが、看護師、家族に怒りをぶつけている場面をよくみた。病室の声はよくきこえてしまうので仕方ない。そして聞いていると、その怒りの理由は、病人として管理される対象となる事への抵抗であることが多い。

トイレに一人で行けるのに、看護師がついてくる。
薬の管理を自分でできるのに、看護師がやると言ってくる。
私は老人扱いされている。信用されていない。

というようなことだ。

患者さんたちが怒っていることについて、客観的に合理的観点でその現場をみていると、看護師さんの判断は間違ってはいないように思う。コミュニケーションの方法に工夫が必要だとも思う点はあったのだけれど、明らかに一人で何かをするのは不安を感じる状態だったし、業務の効率や安全性のことを考えると、真っ当な判断のように思えた。

始めは、そんな患者さんたちのことを、「わがままで文句ばっかり言う迷惑な人たちだな」と思っていた。しかし、3ヶ月を病院で過ごすと、それが“どうしても譲れない、とても大事な境界線”を守るための抗議なのだというのは、わかってきた。

患者たちは病気を治すということと同じくらいに、自分が自分であること、尊厳が保たれることを望んでいた。

自分が自分であることのラインをどこで引くのか。それは人それぞれのように思えた。自分らしくありたい、ということは誰もが望んでいいはずだ。

私もその少し気持ちがわかる。術後はいろんなことが出来ない状態で尿管カテーテルをつけて、自分でトイレにも行けない。ちょい5日前くらいまでは会社の中で自分がマネジメントする組織を持っていて、いろんな意思決定をしてきたのに、その私が排泄すら一人でできないのだ。それが、いっそのこと気を失ってしまいたくなる事実であり、さらには自分を情けなく思い、自分を認められなくなる感覚があった。

そんなこんなで、どんなに気分が悪くても、傷が痛んでも、自分の意思で歩くことができて、トイレに行けた時はほっとした。自分が自分の意思で決定し、何かをできているという事実で、「私が私であること」を取り戻せたのだと思う。意地でも私は自力でトイレに行きたいのだ。

一方、医療の現場で尊厳を守ることを優先すると、安全や効率は損なわれることは容易に想像できる。病院はどこまでリスクテイクして尊厳を守るか、それは非常に難しい問題なのだろうと思う。よって、医療現場を批判するような意図も、1ミリもありません。

人のために何かすることは、存在を許されること。

ある朝、体重を計測しにいった。入院患者の毎朝の義務なので、時には体重計の前に列ができることもある。私の前にはピンクの小花柄のパジャマを着た、70代くらいの女性が並んでいた。その方は声をかけてくれて、「私と同じ膵臓の一部を摘出する手術を受けること」や、「膵臓の手術を明日受けるのだけど不安だ」ということを話していた。

私は少し躊躇はあったが、自分の手術の体験をはなした。とにかく、少しでも役に立ちたかった。手術は目をつぶっていたら終わること。1週間は辛いけど、そこを抜けたら何とかなること。そんなことを話したように思う。大したことは言っていないけど、その女性は「ありがとう」と言って、手術頑張れそうだ微笑んでくれた。私は、うれしい感情が湧き上がってきた。飛び上がるほどに舞い上がっていた。(実際には傷が痛くて、前屈みで牛歩でしか歩けないのだけれど…)

数日間、人にケアだけされていると、自分が何もできていない無力な人間であると感じる。与えられるだけって、実は辛い。

そんな私は少しでも人の役に立てたかも知れないという事実で、満たされた気持ちになった。それは、自分が無視されるものではなく、存在しても良いのだという、許しを得たような気持ち。やはり利他の気持ちや行為、そして人の役に立つことは、自分の存在を許し癒されることに繋がるのだと感じた。これは他者からの承認ではなく、自分が自分に対するものだ。

最低限譲れない自分らしさが根底にあり、その次の段階が人に認められることなのかもしれない。マズローの欲求段階を体験しちゃった話だ。

さいごに

以前、ひきこもりの若者たちが社会へ出るためのプログラムの一番初めに、幼稚園の子どもたちと引き合わせる話を聞いたことがあった。若者たちが子どもたちの役に立つことで、自信を取り戻すという目的なのだそうだ。

「誰もが存在すること自体に価値のある人間である」、本来なら全員そうに決まっている。

ただ、自分自身で自分を信じられるかが重要で、その自己認識があることが社会的に生きていけるということなのかもしれない。

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