シン・ゴジラ批評に覚える違和感に就いて

シン・ゴジラ』のネタバレが数多く含まれています。まだ映画を見ていない方、これから見る予定の方、みる予定の無い方、見る気が無い方、いずれも絶対に読まないでください。

ネタバレ注意。

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 『シン・ゴジラ』公開から三週間が経過し、はじめは絶賛ばかりであった批評であったが、次第に疑問を唱える声も出てきた。賛否で言えば私自身の立場は「賛」に属する。しかし、「否」を唱える人達を論破することが本記事の目的ではないことを始めに断っておく。ここで問題としたいのは、立場は問わずその見方である。

 批評において『シン・ゴジラ』を称賛するもの、または疑問を投げかけるもの、私は両者に対しある一つの違和感を覚えている。それは両者共に『シン・ゴジラ』を「政治的」あるいは「社会批判的」な作品として見ていることである。ある人は東日本大震災における政府の対応に対するアイロニーだと言い、またある人は震災以降の日本への応援歌だと言う。一方で「政治」「社会」「災害」がきちんと描かれていないと批判する声もある。しかし本当に『シン・ゴジラ』はポリティカルフィクションなのだろうか。

 たしかに『シン・ゴジラ』の設定には東日本大震災や原子力発電所の事故のイメージが濃厚に反映されている。だが、シン・ゴジラがポリティカル・フィクションだとしたら、懐疑派の批評家が言うように内容があまりに薄くはないだろうか。それは当然なのである、『シン・ゴジラ』が本当に描こうとしているのは政治や社会ではないのだから。 

 1954年のゴジラ[以下ファースト・ゴジラ]がビキニ環礁での核実験問題を受けて製作され、ゴジラが核の恐怖のメタファーになっていることはよく知られている。2016年のシン・ゴジラは、それを受けて原子力発電所の事故を題材として取り入れたのだと考えられる。だがファースト・ゴジラと同様の支店でシン・ゴジラを語ることは不適切である。以下「人々の怪獣の認知とジャンルとしての怪獣映画の確立」という観点で両作品における「表現するもの」と「表現されるもの」の差異を論じる。

 ファースト・ゴジラの撮影時、役者に「怪獣」を説明しても伝わらないので、長い竿の先に目印をつけ、そこをみて演技するように指導したというエピソードは、1954年「怪獣」という概念がほとんど知られていなかったことを裏付ける。そのことがファースト・ゴジラの演出に繋がっている。

ファースト・ゴジラでは画面にゴジラは最後まで登場しない。ファースト・ゴジラにおけるゴジラは「姿がみえないが、恐ろしく、わけのわからないもの」だったのである。それゆえ核のメタファーとして有効であった。この手法は「怪獣」の概念を人々がもたない故に成立するのである。

 その一方、2016年を生きる人々の誰もが「怪獣」のイメージを持ち、怪獣映画というジャンルが確立している。もはや怪獣はわけのわからない存在でも恐怖の対象でもなくなってしまった。それ故2016年は怪獣をメタファーとして利用し放射線の恐怖を描けるような時代ではない。それが私が『シン・ゴジラ』をポリティカル・フィクションとしてとらえるべきではないと考える理由である。

 では『シン・ゴジラ』は何を描こうとしたのか。ゴジラ映画における「失われた恐怖」である。ゴジラ映画の歴史を辿ると初めは怖かったゴジラが二作目以降、怖さを失い怪獣同士がプロレスをするだけの痛快映画になっていったことがわかる。『シン・ゴジラ』の素晴らしさは、そのようにしてゴジラ映画から失われてしまった恐怖を再び蘇らせたことにある。そして、怪獣に恐怖のイメージを再び与える上で東日本大震災の記憶が重要な役割を演じている。

 言い換えれば、ファースト・ゴジラにおいて「表現されるもの」が核の恐怖で「表現するもの」がゴジラであったのに対し、《シン・ゴジラ》ではその関係が逆転し「表現されるもの」がゴジラの恐怖「表現するもの」が東日本大震災の記憶となっており、ファースト・ゴジラとシン・ゴジラの間で「表現するもの」と「表現されるもの」の関係が逆転していると言えよう。

 『シン・ゴジラ』におけるポリティカルな要素は作品を盛り上げる素材にすぎない。映画の大半をしめる政治家や自衛官の右往左往する姿は、ゴジラがそれだけ強くて恐ろしいヤツなのだということを示すため演出であり、すべては東京が焼き尽きるあまりにも美しく絶望的なスペクタクルと、無人在来線爆弾のための緻密な前振りなのである。