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昨今の謝罪について思う事

本日はマスメディアを賑わせている「謝罪」の核心に迫りたい。
世論を構成するマスメディア等の媒体を見ていると、日本人はやけに謝罪にうるさい。
何かあれば、あやまれ!
誰に迷惑を掛けた訳でもないのに、「あやまれ!」
冷静に考えると、申し訳ないが、滑稽で笑えてきてしまいます。笑
おそらく和を乱したから、和の風紀を乱したから、「あやまれ!」なんだと思う。

突き詰めて考えれば「皆と違う個性的な意見を言う奴は危険だ」その世論の不安が謝罪を求めさせ、丸く、和の中に収めようとしているんだと思うんです。
これは、島国日本が代々伝統的に和を重んじて発展して来たからなんだと思います。
「島国」の文字通り地政学的な視座がそこに認められると思う。
みんな同じてなくてはならない

これは、島国日本が、隣りの国(昔でいう隣の地域)には簡単に侵入できないシステムだったため、課せられた暗黙の了解だったんだと思う。(関所などがあって行き来が自由ではなかった)
その限られた地域で、限られた人々の中で生涯を終える事が当時は当たり前だった。

「あやまれ!謝罪しろ!」は根本に立ち返れば、
出る杭は打たれ、村八分が死に直結した時代の名残からなる同調圧力なんだと思っています。

人間の遺伝子には、身の危険を示唆するネガティヴなシグナルには、無意識に強烈に反応するように書き込まれている。
この事は、種の保存が命題である生物なら当然に理解は難しくないと思う。

人間は論理的に物事を考えられる存在、

しかし、我々人間は哺乳動物である事を往々にして忘れている、
人間は動物、
この動物的なエモーションが上記のマインドの根源なんじゃないかなと思っている、、
身の危険が感じなくなるほど社会機能が高度にならない限り(テクノロジーによって最適化され、その恩恵を皆が認識しない限り)この動物的な国民感情は無くならないと思うんです。

まあ、合衆国他から派生したグローバル基準。ダイバーシティーの思想に照らして、これはその対比で言えることなんですが、、時代錯誤な風潮である事は理解に難しくないと思います。
文化は一遍には変わらない、長い年月をかけてゆっくり変わって行くものなんでしょうね、

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