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「うしろめたさの人類学」から

こんにちは(*'▽')

大学入学してすぐ、熱心に聴いた授業が「文化人類学」でした。そつなく単位をとれば十分という、専門課程にあまり関係ないものでしたが、「フィールドワーク(研究者自身が現地に赴き、インタビューや資料収集などの調査をする)」という手法をはじめ、森と共生している部族の世界を垣間見れたような気分で心躍らせていました。いま思うと「ウルルン滞在記」と混同していたような気もしますが…(^^;)


世の中どこかおかしい。なんだか窮屈だ。そう感じる人は多いと思う。でも、どうしたらなにかが変わるのか、どこから手をつけたらいいのか、さっぱりわからない。国家とか、市場とか、巨大なシステムを前に、ただ立ちつくすしかないのか。ずっとそんなもやもやを抱えながら、私自身、文化人類学を学んできた気がする。

この本では、ぼくらの生きる世界がどうやって成り立っているのか、その見取り図を描きながら、その「もやもや」に向き合ってみようと思う。人類学的センスで世界をみなおす。それは、どういうことか。まずは身近なエピソードから始めよう。

京都で暮らしていたころ、近所でよく会う初老の男性がいた。北山周辺でしか見かけないので、勝手に「北山のおっちゃん」と呼んでいた。

おっちゃんは、身長が180センチくらいあって、がっしりとした体格。私が乗っているバスにどかどかと乗ってきたり、またどかどかと降りていったりする。近所のスーパーでは、店内を大股でぐるぐると歩き回って、お惣菜などを買って足早に出ていく。いつもなにかに追われるように急いでいた。

おっちゃんは、たぶんあまり風呂に入っていない。服も洗濯している様子がない。だから少し臭う。スーパーに入ってくると、店員たちは顔を見合わせて、目配せしながら苦笑いする。おっちゃんは、いつもひとりだ。どこでどうやって生活しているのか、わからない。

あるとき、いつものスーパーで買い物をしていると、おっちゃんが入ってきた。店内をきょろきょろと見渡し、すごい勢いで商品棚のあいだを回り始める。店内には、ちょうどベビーカーを押した外国人の家族づれがいた。おっちゃんは、その奥さんの前で立ち止まると、唐突に英語で話しかけた。

“Where are you from ?” “I am from Canada !” “Oh, Canada ! Toronto ?” “No, Vancouver !” “Oh, nice !”

おっちゃんは、笑顔で Than you ! Bye ! と言うと、レジでお金を払って、急ぎ足で出ていった。私が驚いたのは、おっちゃんが英語を話せたことではない。ふたりの会話があまりにも自然で、そこになんの違和感もなかったからだ。ぼくらが外国に行っても、陽気なおっちゃんに、突然、「どこから来た?」なんて話しかけられることはよくある。その人のことを「おかしい」とは思わない。

いつものスーパーでは、店員はこそこそと笑い、客はおっちゃんの存在に気づかないふりをして目をそらす。そこでのおっちゃんは、いつも「変な人」だった。

でも、その「おかしさ」をつくりだしているのは、おっちゃん自身ではなく、周りにいるぼくらのほうかもしれない。何事もなく買い物を続けるカナダ人家族を見ながら、そう思えてしまった。

人が精神を病む。それはその人ひとりの内面だけの問題ではない。もしかしたら、ぼくら自身が他人の「正常」や「異常」をつくりだすのに深く関わっているのではないか。

自分の「こころ」が人格や性格をつくりあげている。誰もがそう信じている。でも、周りの人間がどう向き合っているのかという、その姿勢や関わり方が自分の存在の一端をつくりだしているとしたら、どうだろうか。ぼくらは世界の成り立ちそのものを問い直す必要に迫られる。ある人の病いや行いの責任をその人だけに負わせるわけにはいかなくなるのだから。

松村圭一郎

『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、2017年) はじめに より


フィールドワークというものを知っていたおかげで、その後、世間知らずを自覚したり、常識や不文律がわかってないなぁと落ちこんだりしたようなときも、「これは私にとってのフィールドワークだ!」とゲーム感覚めいたものでくぐり抜けることができた面があります。

「ぼくたちは、どうやって社会を構築しているのか? いったいどうしたら、その社会を構築しなおせるのか?」

複雑怪奇にかんじる社会を見直す手法としての文化人類学に、いまも興味津々です。

Look at the world like a person who dose field work ☆

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