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無愛想だが話好きな店主のいる本屋

 いい店は、だいたい大通りから一本か二本、裏に入ったところにあると、一時期、わたしはかたく信じていた。街へ行くたびに細い道へ、狭い道の方へと足は向かった。

当時のSは、駅の周辺に大通りがなく、街全体が路地でできているような街だった。つまりわざわざ裏に回らなくてもおもしろい店に出会える、ということだ。子どもが生まれて引っ越すまでは、近くに住んでいたこともあり、よく通った。

その本屋は、Sの裏通りの古着屋さんの角を曲がったどんづまり手前のビルの二階にあった。店に入ると、ぎょろっと音がしそうなほど強い視線を投げかける店主がレジの後ろに座っていた。その目力に押されて、つい「こんな行き止まりのところにお店があるんですね」という、けなしてはいないが決してほめているという風には取られないであろう、つまり言わなくてもいいようなことを言ってしまった。そのまま流してほしかったのだが、店主は「ふきだまり?!」と聞き返してきた。ああやっぱり言わなければよかったなあ、と後悔した。聞き間違えるにしたって、わざとらし過ぎた。

その本屋は、当時はまだいちおう本屋然としていて、小さいながら、ちゃんと選ばれてここにある、つまり愛されている本たちが並んでいた。
おそらく本好きが高じて本屋になったのであろうその店主は、どの本についてもいくらでも話してくれそうな佇まいを遠慮なく漂わせていたが、その日は遠慮して帰った。

そのうちわたしはその店に通うようになる。当時わたしはギターの弾き語りや詩の朗読の活動をしていた。イベントのフライヤやらフリーペーパーやらコピーとホチキスで作った詩集やらをいくらでも置かせてくれたし、詩を書く友人がそこでワークショップを毎月開催するようになったからもあるが、店主のアクの強さがそのうち気にならなくなったというのも大きいかもしれない。なぜなら、その本屋に集まる面々が彼を上回って個性的だったからだ。彼らの多くは、店主と話をしにきていた。本を買っていたかどうかはあまり記憶にない。

何者かになりたくて、なれなくて、自分を誰かに認めてほしいという想いだけが共通する人たち。わたしもその中のひとりだった。

店主は、愛想はないものの、話をするのは嫌いではなかったようで、いつ行っても誰かしらがいた。

誰も来ない時、店主はチェロを弾いたり、小説を書いたりしていたようだ。
 
そのうち、わたしに子どもが生まれ、引っ越したのを潮に、だんだん店とは疎遠になった。風の便りで店主が小説家になったことを聞いて驚いた。誰よりも早く、店主は何者かになってしまったのだ。

店はまだSにあった。子どもが生まれてしばらくして、店に行った。もう本屋というよりは、書斎に店舗部分がくっついた部屋のようになっていた。店主は前よりも忙しそうだった。

さらに月日が経ち、店をたたむというので、最後の詩のワークョップに二人目の子どもを抱いて参加した。当時、店によく来ていたメンバーが集まっていた。店は物置のようになっていた。おかげで、物陰で授乳ができたのはよかった。最後に残っている本を半額で売るというので、ずっとほしかった写真集を買って帰った。それから店主には会っていない。
 
はじめてあの本屋に行ってから、十六年くらいたつ。あれ以来、彼のように話しかけてくる店主のいる本屋には行ったことがない。

Sという街は駅の構造が変わってしまって、さらにあまり足の向かない街になってしまっていたのだが、この間、久しぶりにSに用事があり、行った。街を歩く人はそれほど変わっていないように見えた、自分よりも若いことをのぞけば。そんな彼らに話しかける店主がいるような店は、今、どのくらいあるのだろう。ましてや本屋で。

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こちらも併せて読むと面白いと思います。
「フィクショネス」という本屋の話 « マガジン航[kɔː] (magazine-k.jp)


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