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震災と釜ケ崎(修羅界)

阪神大震災から29年経ちました。

当時 私は西成花園の8階建てマンションの一階で事務所(人夫出し)兼住居を構えており、1/17朝早く縦揺れで目が覚め神棚の七福神と水晶が落ちました。震度3でした。

すぐにTVを付け神戸市内の映像で暗い中 所々で火の手が上がっていました。明るくなってからの映像はビルが傾き家屋が倒壊し高速道路が崩れ堕ちている光景でした。

安否確認と大阪茨木に人夫出し飯場があり心配しましたが皆な無事でした。

その頃は新幹線関係専門の土工や大工を手配しており緊急事態で人が足りず、私も現場へ出向き24時間体制で体力が続く限り働きました 持ち場は西宮駅付近でした。

七福神の陶器は壊れましたが元の形にくっ付けて現在もエントランスに飾っています。見る度に震災を思い出し悲しくなります。

4年ぶりの震災の記憶を次の世代に語り継ぐ供養の祭典 神戸ルミナリエも第一回から見に行っています。

★震災は地獄絵図でした。
☆あの時どれだけ寒かったか
☆あの時どれだけ捜したか
☆あの時 下敷きになった人を思うと今でも胸が痛くなる。
★あの時、現場で見た光景は悲惨過ぎて想い出したくない。

ルミナリエの煌びやかさが これから生きていく神戸市民の未来の光の様で、電飾の中を歩くだけで癒されたものです。歩くだけの鎮魂ですが厳かで満足しています。

しかし今回
一部の作品鑑賞が有料化には驚きました。

主催者の方に言いたい。
☆輝く電飾の一つ一つは約七千人の御霊を鎮魂する祈り光。
☆亡くなった友人や家族の記憶の光。芸術は二の次だと思う。

29年経てば
自然災害の脅威も薄れ、供養の場に営利主義企画も出るのも時世で仕方ないのかなと寂しい。

震災当時の西成(釜ケ崎)は活気に溢れ勢いがありました。

飯場を初めて3年目で右も左も分からず最初は新聞広告とチラシで始めて より良い人材と数の確保で西成へ。

若造(20代前半)の私は手配する場所もやり方も分からず手配に立つと必ず揉めました。

現在、組は解散してありませんが○○組の金○番だった○業○弟のドヤビルが西成区内に幾つもあり、彼らも人夫出しをしていたので私が場所で揉めると彼らが出て来る繰り返しでした。

ミナミの○○組から呼び出された私は取引先を考えると後には引けず「生活があるから引かない!」と後先考えずに言ったら笑われ、妙に気に入られ?上○金無しのドヤビル前手配が出来る様になりました。その時の○長がホテルで○かれた時は一切無常の現実に泣きました。

その後は西成労働福祉センターの職員の薦めで求人カードを作り、就労斡旋を勉強して建設土木会社の登録をしました。

 監獄飯場(タコ部屋)の多い時代でもあり、人夫・職人との駆け引き経営力が必要でした。御互いが海千山千?ですからね 何時も切磋琢磨です(笑) それだけ仕事があった時代だったのです。

その頃の西成は修羅界で、肩が触れた!眼付けた!だけで刺す撲るは日常茶飯事でした。

ノックアウト強盗もこの頃です。人夫職人の方は飯場契約満期で必ず西成へ帰ります。その人達の稼いだ金を狙うのです。

我々も注意喚起して帰すのですが、酒が入ると夜遅くまで遊び歩く そこを知ってて暴力で金を奪います。

私も仕事柄、接待帰りで遅く西成へ帰ると そういう現場をよく見たものです。

その頃は大麻じゃなくシャブ売りが多かったです。浮浪者の方々も元気がよくて、縄張り争いで死人がよく出てました。修羅の世界です。

第22次(1990年)西成暴動の際は、私はエスカルゴ(ドヤ)に居てドヤ前の道路が戦場でした。車は焼かれ自転車は山積み(バリケード)の状態で機動隊と人夫が睨み合いをしてました。

西成は自殺する方も多く、エスカルゴオープン当時から一緒にいた鳶職の方が私の部屋(2200円)の隣(3000円)にいました。気さくな方で仕事もよく出来て背の高い男前の兄ちゃんでした。

手配から帰るとフロントから「最近顔見いへんけど居てはる?」と聞かれ、「最近、そう言えば逢ぅてへんな」と、私も心配して部屋をノックしていましたが返事はありません。

何日か経って警察が部屋に入ったみたいで自殺されていました。

西成では鳶職の方の自殺をよく見掛けます。高所がへっちゃらですから高所の○吊りが多い。私の隣の鳶職の方も○吊りでした。

1990年代の西成での間違い事は、喧嘩で死ぬか、自殺するか、売人になるか薬中です!その先は警察です。

最近 西成界隈を撮るYouTubeのヤマキのレバー焼きを見ますが、私がいた頃のホルモン焼きは至る所にありました。

現在 西成は一般人が気楽に行けて安全?なんですね。実はホッとしています。

昔は三角公園近くに泥棒市場(ここで買った自転車が盗られて次の日には店先に並んでいる)があって、缶々博打(最初は缶の中にはお金はないが時間が経つと缶一杯だった)が至るところにあって、合力(盆を敷く)や、闇(馬・ボート・自転車)賭博場も多かった。それが西成でした。今日はここまで。

あらまし事の内容で気が滅入る話でスミマセン。読んで頂きありがとうございます。

昭和の時代は激動でした。戦後のツケで、平成・令和の皆さんは もっと激動だと思います。

私なりに これからも時代に役立つ人間であるように精進して気張ります。徳允


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