見出し画像

太宰治「人間失格」を読んで思ったこと。

こんにちは、小鳥遊です。つい最近、太宰治の人間失格を読みました。普段簡単な本しか読んでいない私がなぜ急に人間失格を読み始めたのかというと...
ズバリ「文豪ストレイドッグスの太宰治が滅茶かっこよかったから興味が沸いた」という理由です。本当に純文学が好きな人からしたら「なんだよその理由...」と思われるかもですが。
最近文豪ストレイッドグスめちゃくちゃハマってるんですよ。

太宰治ーアニメ文豪ストレイドッグスより引用

オンラインで朗読が聞けるんですけど、どうしても紙で読まないと読んだ気がしなくて、結局、紀伊国屋で文庫本を買いました。
昔の本って割と安いんですね。
私が購入したのは普通の文庫本でしたが、ちょうど文ストのキャラのイラストが描いてあるカバーが売っててすごく迷いました...。
↓こんなの。普通のよりも少し高くて手が出なかったけど...。

角川文庫×文スト 紀伊国屋書店より引用

とにかく、アニメの影響で太宰治の本を読みたくなったわけです。

読んでみた感想

あんまり共感性はないと思います。なにせ、時代も考え方も全部違う人が描いた本を読むわけですから、フルに共感できる!って人も少ないと思います。

ザッと概要だけ説明すると、小さいころから孤独を感じていた主人公・葉蔵が、悲しみや恐怖を抱えながら生きて、死ぬ話だと思います。
この解釈があっているかどうかはわかりません。ただ、読んでてそんな感じだと思いました。

後半は、主人公がだんだん最低男だな...と思うばかりで共感も何もできなかったのですが、中盤くらいまではちょっとだけ共感できました。

有名な「恥の多い生涯を送ってきました」から始まるはしがきから、主人公・葉造の幼少期の経験が語られていきます。

読んでいて、

そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。

太宰治「人間失格」第一の手記より引用

つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。

太宰治「人間失格」第一の手記より引用

この葉造の「お道化」という、人間と関わるための、術のようなものが、少し共感できました。周りの人間と自分が違うのではないか、とひどく不安になって、ひたすら人前で「お道化」を演じる葉造は、どこか現代社会の若者でもあることなんじゃないか、と思いました。

だれしも、「自分とほかの人間は大きく違っていて、自分は社会からずれているのではないか」という不安を抱いていて、でもその全員が人前で「お道化」を演じているからそれに誰も気づかないだけで、みんな感じていることなのではないか?と思いました。

第一の手記で、葉造の父が「シシマイを欲しくはないか」と聞いて、葉造がそれにうまく答えられなかったときが本の中で一番共感できた箇所だと思います。

何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐は、きっと、おそるべきものにちがいない(以下省略)

太宰治「人間失格」第一の手記より引用

自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。

太宰治「人間失格」第一の手記より引用

子供の時に、「ほしくはないけれど...」みたいな感じで、親に買ってもらったりすることって、あると思うんですよね。でも、断ると逆に親を怒らせてしまう、不快にさせてしまう、という恐怖から、プレゼントを欲しがったり、親の言うとおりにしたり、ということが、少なくとも私にはあります。

まとめ


結果的に言うと、読んでみて結構面白かったです。昔から「純文学」とか「文豪」みたいなものにすごく苦手意識を持っていたので、文ストでちょっと好きになってから人間失格を読めて、結構楽しめました。皆さんも機会がありましたら、人間失格を読んでみてください。案外共感できるところがあるかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?