真実は相対的なので、認識を間違えないために、最終的には中庸であることが求められる。中庸とは超越/俯瞰していること。いろいろと議論はあるだろうし、自分はこう考えたい/自分ならこう答えたい、といった意見を持つのは当然だ。しかし最終結論は保留する。真実は可能性(確率)でのみ記述できる。
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