見出し画像

祈りもマントラも 【光】 栄光と光明を希求する

そもそも、自己と他者とのあいだには、明瞭な境界線など無い。
たしかに、自己も他者も、物質的には個別に存在しているように見える。
しかし、物質的存在には実体が無い。
つまり、自己も他者も、物質的には実体が無い。
よって、自己と他者との明瞭な境界線は、そもそも無い。

いっぽう、自己も他者も、意識を伴なっている。
意識が空間=環境を認識することで、空間=環境が共有される。
つまり本来、空間=環境は、自己と他者の意識の共有体である。
したがって、空間=環境を共有している意識のありように、つねづね心を傾けよう。

自己と他者の考えの違いなど、もとより取るに足らない、些細なことである。
なぜなら、自己と他者には境界線が無く、意識が空間=環境を共有しているからである。
すなわち、考えの違いがもとで争うことに、何の意味も無い。

境界線の無い自己と他者は、互いに意識を高め合うことで、共有する空間=環境をより良きものへと導く。
肉体的・精神的に他者を傷つけ、与える痛みは、遠からず、自己の痛みとなって感知される。
同様に、他者に施す優しさや慈しみは、遠からず、自己の恵み・歓びとなる。
意識の高みの極みには、人びとが、それぞれの文化において讃美する至高の原理があって、おそらくそれらは、つまるところ共通なのであろう。

全能の父なる神とは、不空なる大日如来のことであり、主の大いなる栄光とは、遍く照らし広める眩い大光明のことである。

キリストとその教団の教えとブッダとその弟子たちの教えは、ときに、その指向性こそ違えど、本質において何ら異なることはない。

代表的な、キリスト教の祈りと仏教のマントラを、対比させつつ読んでみると、ふたつは全く同じこと【キーワードは『まばゆい光』】を伝えているのが解る。

『頌栄(プロテスタント)』
『栄唱(カトリック)』
『小栄唱(聖公会)』
『光栄讃詞(正教会)』

Gloria Patri, et Filio,
et Spiritui Sancto.
Sicut erat in principio,
et nunc, et semper,
et in saecula saeculorum(*6).
Amen.
父と子と聖霊に栄光あれ。
初めにそうであったように、
そして今も、そしていつも、
そして代々に至るまで。
アーメン。
『光明真言(真言密教)』

Om, Amogha Vairocana,
Maha mudra, Mani padma,
Jvala pravartaya, Hum.
Om,
不空(*1)なる大日如来(*2)よ、
大いなる印契を有する御方(*3)よ、
宝珠なる蓮華(*4)よ、
光明(*5)を遍く照らし広めたまえ,
Hum.

(*1) 不空=Amoghaとは「一切を成就させられる」こと、つまり「全能」と同義。

(*2) 大日如来=Vairocanaとは宇宙の根本原理、つまり父なる神=Patri。

(*3) 印契を有する御方=Mudraとは覚醒した人、菩薩・如来、つまり神の御心にかなう者、ブッダでありイエス(神の子)=Filio。

(*4) 蓮華=Padmaとは、美しい花を美しくあらしめる聖霊(の働き)=Spiritui Sancto。

(*5) 光明=Jvalaとは、すなわち栄光=Gloria。

(*6) ”Sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in saecula saeculorum”は、過去も今も永遠に=時空を超えて「遍く=Pravartaya」。