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大東流誕生期の人間関係(上)

西郷頼母の話から大東流の誕生と伝承のこと。そして・・・
長州藩と会津藩、互いに遺恨あり、その長州人に対する鶴山先生の印象を記したメモです。行間には鶴山先生のいろいろな思いがあふれているようです。

 大東流の誕生は西郷頼母を外しては考えられない。大東流は公武合体の時代要請に基づき誕生したものである。藩主松平容保の京都守護職就任に再三反対した頼母は、文久3(1863)年自らの主張が受け入れられず家老職を辞した(公式には「御免御叱」にて免職)。その後5年間栖雲亭(せいうんてい)で隠栖したが、この間、西郷四郎が誕生(1866年)していることから、四郎は頼母の実子説がある。

武田惣角は英名録に、会津藩士 小野派一刀流 渋谷東馬門人とあるように、最初は剣術指導をして歩き、後に会津藩士 保科近悳(西郷頼母)門人として大東流を指導している。これを見れば伝承系路は明確である。  

頼母は父近思(ちかもと)が江戸詰家老であったので江戸育ちが長かったが、溝口一刀流、大坪流馬術、長沼流兵法の免許皆伝であった。これらは江戸では習えないものだったので、会津で修行したのであろう。「會津日新館志」によれば歌人としても頼母は優れていた。「會津日新館志」は古い記録で幕末期の日新館の実情は伝えていないが、この史料は頼母の叔父が援助して完成を見たもので、父も日新館の指導係を務めたことがある。

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