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十全武術会会長。鶴山晃瑞伝の日本伝合気柔術(大東流3大技法=大東流柔術・大東流合気柔術…

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十全武術会会長。鶴山晃瑞伝の日本伝合気柔術(大東流3大技法=大東流柔術・大東流合気柔術・大東流合気之術)の道統を守る者です。大東流の秘話、合気道との関係、武術に関することなどについて書いていきます。

マガジン

  • 謝礼問題

    謝礼問題とは、植芝盛平と武田惣角のそれぞれの後継者たちの反目の原因となっている金銭問題のことです。盛平は惣角を大本教本部に招聘し初めて江戸柳生系合気柔術の指導を受けました。この時の謝礼金の問題が一つ。盛平は講習終了後に教授代理を許されました。この時、盛平は入門者1人につき3円を惣角に納入する旨英名録で約束しています。これが守られなかった問題が二つ目です。

  • 骨法の堀辺が来た

    鶴山晃瑞先生に対する「堀辺正史の抗議事件」の顛末について、とりまとめたものです。

  • 秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編

    鶴山先生は、「図解コーチ合気道(1971(昭和46)年初版発行)」に継ぐ、2冊目の著作として「秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編」の出版を計画していました。 堀川先生の口述を受け、原稿や写真の準備もほぼ終わっていたようですが、①当時は全国的には無名であったこと、②出版予定時79歳とご高齢であったこと、③大東流関係者から武田惣角の門人の中で堀川氏の技法だけを紹介するのは大東流そのものに大きな誤解を招くとの意見があったことなどから結果として出版には至りませんでした。今回、筆者の手元にある原稿についてその内容を紹介していきたいと思いますが、①完成原稿ではなく、一部の原稿(技法編がない)しか残っていないこと、②鶴山先生は、この時期は皆伝前であり大東流の全容を把握していなかったことなどから口述の部分の一部についてできるだけ忠実に、適宜補足説明を入れながら紹介したい、と思います。

最近の記事

入身投の基本(下)

植芝合気道には入身投がある。吉祥丸氏によれば「合気道技法の特長は入り身と捌きにある。しかも人間が全身全霊(心・気・体)の統一された力を出し得れば、その技法は力強い生命力の発揮となる」そうで「合気道ではその力を呼吸力といい、おもに手刀を通じて現わされ、技の活性化がはかられる。」(同書114頁)とのことである。「合気の投げは、自然の理に順応するように工夫されているが(中略)入り身投げは中でもあざやかで、入り身で相手の死角に入り、一瞬のうちに制する武道のきびしい一面と、丸い円転の妙

    • 入身投の基本(上)

      入身投の基本は直線的な動きであるとする鶴山先生のメモです。実際、植芝盛平の『武道』の入身投も足を引き半身になるだけです。富木謙治系の入身投(相構え当て)も養神館系の入身投も足を引き半身にはなりますが、足を引きながら大きく回る捌きはしていません。 なお、本メモにはプロレス転向後の輪島の話題が出ていますが、その技と鶴山先生の入身投(スペシャル)は雰囲気が似ているので取り上げたのでしょう。 最近、演武大会でやっている大東流合気柔術の技法と、植芝合気道の技法は全く違っていると強調

      • 柳生宗矩一族と松平信綱6

        ところで、猿楽(能)は、室町時代から足利義満など時の権力者の庇護を受け、武家社会の発達と供に発展した。秀吉・家康供に猿楽の愛好者(宗矩も)だった。この時代は大和猿楽四座(観世座・宝生座・金春座・金剛座)が中心であった。同じく猿楽の愛好者であった秀忠は金剛座の北七大夫長能(しちだゆうおさよし)をひいきにし、北を喜多姓に改めさせ喜多流の創設を認め、現代に続く四座一流の体制が整ったのである。猿楽は家光も愛好し、大猷院殿御実紀に猿楽鑑賞の記録が多数残っている。 猿楽は徳川幕府の式楽

        • 柳生宗矩一族と松平信綱5

          話しは前後するが、宗矩には4男、すなわち長男十兵衛三厳、次男刑部少輔友矩、同年齢の三男主膳宗冬、四男列堂(芳徳寺第一世座主)があった。 夭逝(ようせい、27歳)した次男友矩についてである。寛永11年の将軍上洛にも供奉し、徒士(かち)頭を命じられている。その後、大名に取り立てるとの将軍の内証あったが、信綱からの情報提供を受けた宗矩がこれをよしとせず、友矩を引退させ十兵衛三厳の元に預けたのである。「容姿端麗・君寵頗る厚く」といわれた友矩は柳生家の役割からして目立ち過ぎたのであろ

        入身投の基本(下)

        マガジン

        • 謝礼問題
          6本
        • 骨法の堀辺が来た
          35本
        • 秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編
          23本

        記事

          柳生宗矩一族と松平信綱4

          徳川幕府の統治は、戦国領主制を踏襲しつつ大名領国方式に徳川一門による統一封建権力を併存させるというものだった。現代の地方自治制度と似ている。また、会社で言えば本社と支社の関係に似ているが、支社には独立採算制が認められている。本社は支社同士がシェア争いをしないように調整する役割と権限を持つが、それぞれの活動には干渉しない。ただ、支社役員のごまかし・無駄遣い等の監視は欠かせないのである。不都合があれば支店長の交代も行なわれる。幕府は巡見使を派遣するという方法で監察していた。 秀

          柳生宗矩一族と松平信綱4

          柳生宗矩一族と松平信綱3

          松平信綱と柳生一族には秘密に包まれた交友関係があった。 宗矩の門人としての信綱、信綱と十兵衛の軋轢、信綱と宗冬の関係である。宗矩は元和7(1622)年に家光の兵法師範となった。将軍をして師礼をとらせ、また、その側近の諜臣として重きをおかれたのである。 一方の信綱は家光の近衆として後に幕閣として、宗矩の上に位置づけられていた。六人衆(若年寄)になった信綱は、宗矩に大名・旗本,老中以下諸役人の政務・行状を監察させるため大監察(総目付・大目付)を命じた。宗矩の役割は従来と変わらなか

          柳生宗矩一族と松平信綱3

          柳生宗矩一族と松平信綱2

          さて、講談の題材として創られた寛永御前試合では、阿部対馬守重次が柳生宗冬の打太刀を務めた、という設定もあった、つまり、老中阿部の方が師範格ということである。この御前試合は虚構であったが、家光は兵法の上覧を好んだのは事実である。 大猷院(だいゆういん=家光)殿御実紀付録巻二によると… 慶安4(1651)年春ころより(家光公は)何となく御病がちにおぼしければ、御心地なぐさませ給わん御為にとて、諸人の武技御覧あり。2月26日に越後の処士山本加兵衛久茂が無辺流(大内流)の槍法を御覧

          柳生宗矩一族と松平信綱2

          柳生宗矩一族と松平信綱1

          今回の鶴山先生のメモの内容確認作業の中で面白いことが判りました。 柳生十兵衛三厳が徳川家光の勘気を被ったことは有名ですが、松平信綱とその養父(正綱)も家光の勘助を被っていました。信綱は寛永11(1634)年5月ごろ家光の勘気「信綱公御前不快」を被り、同年6月の上洛の際、当時老中格であるにもかかわらず、徒歩での供をさせられています。上洛途中、信綱の騎馬法の指揮を見て家光の勘気が解けたとありました。 今回は、宗矩一族と信綱の関係についての読み物です。 柳生宗矩の門人の内、剣術

          柳生宗矩一族と松平信綱1

          伊賀と甲賀10

          一方、ふるさと伊賀の地は、慶長13(1608)年伊勢・安濃(あの)・一志(いちし)を合わせ、関ヶ原合戦で家康側についた藤堂高虎(とうどうたかとら)の所領とされた。20万石余であった。 特に、豊臣方に対する防備として伊賀上野城が整備され、高虎の弟高清が城代を務めたが、高清没後の寛永17(1640)に伊賀国の土豪出身の藤堂采女(うねめ)元則を伊賀城代家老に取り立て、伊賀国の采配を任せた。 この初代采女の父は、服部半蔵則直で紀伊国保田庄の豪族であったが、伊賀与野の服部氏の養子となり

          伊賀と甲賀10

          伊賀と甲賀9

          一方、伊賀は… 鎌倉幕府誕生のころ、伊賀国は東大寺の荘園に属していた。源頼朝は幕府が存続する限り東大寺の権益を保護する旨約定を交わした。これは平家討伐軍を京に入れる際に、兵力の損耗を恐れ東大寺に協力を求めた代償であった。その後、室町時代になると仁木(につき)氏が守護となり治めていたが、支配力は弱く地侍による自治が進んでいった。 『伊賀者大由緒記(江戸時代)』によると、織田信長(総大将は信雄(のぶかつ))による伊賀攻め(天正伊賀の乱:天正9(1581)年)の際、伊賀から服部

          伊賀と甲賀9

          伊賀と甲賀8

          その後、万治元(1658)年に老中松平伊豆守信綱を頼って、甲賀古士(こうかこし=甲賀在住の元侍であった農民)がその窮状を訴えている。甲賀組の内、郷里に残って帰農した本家筋の者は、当初除地(じょち:年貢免除地)など、特権を維持していたが、時代が進み分家によって田畑が分割されていくなどして生活が苦しくなっていったのである。 さて、四代将軍徳川家綱(在位1651~1680)の時代の話しである。 当時は、寛文3(1663)年殉死を禁止、このころから町飛脚が始まる。 寛文5(166

          伊賀と甲賀8

          伊賀と甲賀7

          徳川時代 寛永11(1634)年6月2日徳川家光は上洛のため江戸を出発した。家光は野州(やしゅう=下野国)から草津までの前駈を務めた芥川治郎左衛門(北山三家)・山中八郎兵門(柏木三家)らを7月9日膳所城(ぜぜじょう)に召し、伏見戦・関ヶ原合戦などの戦功について質問された。帰路8月水口城(甲賀郡)で召見、松平伊豆守らが上諭して大原氏(南山六家)以下数人江戸への転徒に従わせ、江戸に甲賀町を作ることとなった。この年、老中・若年寄の職制を制定した。 翌年には鎖国令を発布、武家諸法度を

          伊賀と甲賀7

          伊賀と甲賀6

          甲賀五十三家の内、特に重きをなす家を甲賀二十一家という。 このうち判四党(判・大原・上野・多喜)と呼ばれた4家は陰陽道を得意としていた。甲賀を地域に分けると、柏木地域(西北部)・荘内地域(中央部)・南山地域(東南部)・北山地域(東北部)となり地域連合による枠組みがあった。それぞれ、柏木3家・荘内3家・南山6家・北山9家がありこれで甲賀二十一家を構成している。この地域ごとに21家以外の53家の氏族が従っていたのである。 天正10(1582)年6月本能寺の変で織田信長が亡くな

          伊賀と甲賀6

          伊賀と甲賀5

          忍者が最も活躍した戦国時代が終り江戸時代に入に戦がなくなると、彼らの役割も変容するのである。甲賀組は家康に従って江戸に行った者と郷里に帰り帰農する者に分かれた。 幕府旗本八万騎の予備軍として甲賀組百人同心の居住地があったのは、江戸青山甲賀町・新宿百人町であった。 ところで、甲賀地方は宗教露地(ろじ)でもあった。油日岳・祝詞ヶ原山・飯道山(はんどうさん)など甲賀を取り囲むすべてが行場であり修験道、雨乞いなどの霊場地であった。都に近い霊地として甲賀は神秘化されていたのである。古

          伊賀と甲賀5

          伊賀と甲賀4

          『甲陽軍鑑』によると、武田家の忍者の運用については、次のようであった。 武田軍団の大将格(寄親)には、信玄から同心(足軽)として透波(すっぱ)が預けられ、その妻子は人質として信玄が預かる。透波は任地(敵地)から甲斐国境まで報告に戻り(国内には入らない)、その情報は寄親の家臣から寄親を通じて信玄まで伝わるという仕組みであった。武田氏の透波には、三者という三つの役割があった。三者とは、間見(遠目に敵を観察)・見分(近くで敵を観察)・目付(敵に紛れ込んで情報をとる)である。この他、

          伊賀と甲賀4

          伊賀と甲賀3

          さて、武田信玄の家臣に軍師として有名な山本勘助という者がいた。この山本勘助(勘介)は『甲斐国史(1814年完成)』の中で「一本系図に勘介先の駿州の源氏吉野冠者の後胤(こういん)(鎮守将軍源満政の末裔)」とある。 富士郡山本村(富士宮市山本)にいた吉野茂兵衛という者のことが天文永禄(16世紀)のころの今川家の文書に残っている。それによると、勘助の曾祖父に当たる吉野浄雲入道貞倫(さだとも)は山本村に住んでいて、八幡宮の祝戸(はらいと=祝詞を唱える役=神主)であった。彼の二男弾正

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