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やわら護身術7

柔術という言葉が「やわら」といわれて文献等に見られるようになったのは万治年間(1658~1860)からである。柔なることばはもっと古くからあるが、「やわら」の意味で使用されるようになったのは比較的新しいと考えてよい。
日本書紀に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力比べの記事もあるように、古代の角力(かくりょく=力比べ、相撲)は「突く・蹴る・殴る」を基本技とする殺手を使っていた。
後鳥羽天皇により相撲の宗家となった吉田司家(横綱免許を考案した行司の家元)の由緒書(ゆいしょがき)によると、聖武天皇が神亀3(726)年角力節会(相撲せちえ)を催されたとき、角力行事官として近江国から志賀清林という人が召し出され、「突く・蹴る・殴る」の三技を禁じ手とし、手を使う「なげ」・足を使う「かけ」・腰を使う「ひねり」・頭を使う「そり」の四手を基本に、それぞれ十二手の決まり手(四十八手)を制定するとともに、儀式の整備、勝負の判定例式などの規則を作った。
戦国時代に入ると鎧組み討ちは、小具足、腰の廻りに分類されて、投技と押さえ込み技の原形となっている。これらの文献記録を見ても、現在一般定説化されている「柔術の起源、陳元贇説」は柔術なる言葉の紹介のみで、日本が柔術が陳元贇から伝えられたものではないことは明確だ。柔術に関する伝書や文献を見ると、徳川中期以前は実践軍法であったものが、甲州流、北条流などを代表とする軍学兵法に重きを置くように変化していった。これは徳川幕府の行政のあり方と同一歩調をとっている、ここに注目すべき点があることを指摘しておきたい。

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