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武門の道理と式目としての大東流

大東流に御式内という言葉が残されているが、それは西郷頼母が口にしていた徳川幕府のバックボーンであった「御式目」つまり、鎌倉幕府の御成敗式目のことである、と鶴山先生のメモにあります。

武門の道理は鎌倉時代から始まる。鎌倉武士の倫理や法観念の基本にある理念が道理である。それを武家社会の規範として定着させたものが御成敗式目である。
武門の道理によって組立てられたものが大東流三大技法であるが、内包する道理は「式目」に定着したものがすべてではなく、律令制度の解体の中から生まれてきた「武家の習い」「民間の法」あるいは先例、故実などすべて道理と呼ばれていたものを含んでいる。大東流技法の集大成は、武士階級の世襲制の中で武門の道理として必修すべきもので制定法の中に存在するものではなく、まさに生命ある現実の中に生きた先例の集積としてあるものであった。
鎌倉時代の道理を現わすものに愚管抄がある。広辞苑では「我が国最初の史論書で七巻からなる。慈円の著と認められる。神武天皇から順徳天皇までの歴史を仏教的世界観で解釈し、日本の政治の変遷を道理の展開として説明している。」その内容には「一切の法はただ道理という二文字がもつなり」という言葉からも判るように、歴史の発展の現実を肯定し、それを道理の移りかわりとして把握しようとした、我が国初の歴史哲学書と言えるものであった。ここでいう道理は貴族社会での先例故実に過ぎなかったので、武士の道理である「正義とか理念」という主張はほとんどなかった。著者の慈円は保元の乱後を「武者(ムサ)の世」といったように、この時代の最大の特徴は武士が支配階級の中心勢力として登上した点にある。その意味で、武士の法や倫理は中世の法や道徳を代表するものといえる。
承久の乱(1221)後、貞永元(1232)年執権北条泰時によって編纂された51ヵ条からなる御成敗式目は形成期武家社会の慣例=道理を集中的に表現している。その後の「式目追加」はもちろん、足利幕府の「建武以来追加」を始めとする諸法も基本法である御成敗式目の追加法であり、戦国時代伊達氏が制定した「塵芥集」を始めとするいわゆる分国法や、江戸時代の武家諸法度においても御成敗式目を参考にするところ大であった。

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