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伊賀と甲賀6

甲賀五十三家の内、特に重きをなす家を甲賀二十一家という。
このうち判四党(判・大原・上野・多喜)と呼ばれた4家は陰陽道を得意としていた。甲賀を地域に分けると、柏木地域(西北部)・荘内地域(中央部)・南山地域(東南部)・北山地域(東北部)となり地域連合による枠組みがあった。それぞれ、柏木3家・荘内3家・南山6家・北山9家がありこれで甲賀二十一家を構成している。この地域ごとに21家以外の53家の氏族が従っていたのである。
 
天正10(1582)年6月本能寺の変で織田信長が亡くなった際、徳川家康は堺にいたが、配下30数名ではいかんともしがたく三河へ逃亡した。家康三大危機の一つ「伊賀越え」である。服部半蔵の差配といわれるが、伊賀者200人の他、甲賀衆の山岡影隆・影友(伴氏後裔)・多羅尾四郎兵衛(甲賀五十三家)・和田貞教(甲賀二十一家)・服部平太夫(甲賀二十一家)などが「伊賀越え」を助けたのである。
 
その後の甲賀組について、『甲賀の歳月(1987年柚月踏草著)』や古くは江戸時代前期の『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』『淡海温故録(おうみおんこうろく)』などによると…

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