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大東流の三大技法(続)17

この特別教伝の後、植芝盛平の指導は、惣角の指示のとおり大東流柔術を簡易化した合気柔術になりました。その内容は『武道練習』から窺い知ることができます。同書を見る限りその基本技法は明らかに大東流柔術ですが、一部江戸柳生系合気柔術の技法も混在しています。受講者はその辺りの事情を知りませんから、すべて合気柔術の技法として稽古したものと思われます。植芝は当時40代後半から50代前半の壮年期で気力体力の充実した年代でした。柔道家出身の猛者たちがひしめく中、厳しい稽古もいとわず「地獄道場」と呼ばれた皇武館道場時代だったのです。

こうした中、植芝は昭和15年に浅野中将、竹下勇経由で惣角が仙台で倒れたことを聞き、指導内容を江戸柳生系合気柔術の集団指導に変更し(元に戻し)ました。惣角は再起不能と見てまたまた約束を反故にしたのでした。このように戦前に植芝の指導を受けた人は、大東流柔術を簡易化した合気柔術か、江戸柳生系合気柔術か、またその両方か、を習っていたのです。したがって、同じ戦前出身の合気道の先生であっても、習った時期によってその技法はかなり異なっていたのです。

一方、植芝は石井光次郎の紹介で大阪朝日新聞社に指導に行き始めます、昭和8年のことです。ここでは、東京から遠いこともあり惣角の目も届かぬ、であろうとのことから、江戸柳生系合気柔術を指導しています。その技は記録映画と総伝第1~6巻までに写真記録として残されています。この総伝の技法を見ると基本江戸柳生系合気柔術ですが、一部柔術を簡易化した合気柔術も混在しています。

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