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西郷頼母と大東流7

会津藩で、当時江戸柳生を習える資格者は、藩主と江戸家老の横山主税常徳(よこやまちから・つねのり)である、横山は家老の家柄である会津九家に属していないので一代限りであった。一方、西郷家は会津藩祖である保科正之(三代将軍家光の異母弟)の分家で、代々家老を務める家であった。藩主は代々養子であったが、西郷頼母は直系であり、事実上の本家筋ということだった。松平容保は水戸藩徳川氏直系で、江戸で生まれていて、11歳で会津藩松平家の養子になり江戸にいた。殿中作法を含め、諸教育は水戸藩の流儀でなされたハズだ。江戸柳生は藩主と一人の家老がその相手役として秘かに稽古するものであった。こういった事情もあり27歳まで江戸にいた頼母は、5歳下の容保の教育係であったのだ。
江戸柳生の技法(勢法)は、親子兄弟に至るも、師の許しがない限り教えてはならないとされており、世襲制とあいまって、頼母はこれを守り、江戸柳生の基礎鍛錬法(後に合気柔術として今に伝わる)は伝えても、剣術(勢法)は教えなかったのである。

ところで、江戸柳生が失伝した理由は、紫ちりめん事件だけではない。教伝しなかったからである。そこには、将軍の剣として、小野派一刀流に対する立場として、陽に対する陰であって、相手に手の内を見せないことを徹底していたからだ。秘密を守るこれが柳生一万石のケジメであった。

頼母は、西郷家の家宝であったであろう宗矩直伝の伝書(進履橋)を、流儀名は大東流合気柔術としたものの、柳生流柔術の証として、惣角に譲ったのである。(完)

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