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骨法の堀辺が来た1

昭和61(1986)年6月25日(水)午後3時ごろ午後の練習が終わって、ロッカー室に戻ろうとしたところ、教室の隣のトイレの前で、私(鶴山先生)に声をかけてきた男がいた。背の高さは私より低い感じで、壮士風に頭髪を長くし、髭顔の男だった。上衣は作務衣し立てであるが、上物の着物地でタップリとした着付けに、上物の外出用の袴を着け雪駄を履いていた。
「鶴山先生?ですか。」「そうです。」誰だろうと思った。
「堀辺です。」どこで会った人かわからなかった。
「骨法の堀辺です!」声が低い。隣に石川教授(国際基督教大学)がいたので、声を低くしていたものらしい。

このように、始まる朝日カルチャーセンター(横浜市中区関内)で起こった「堀辺正史の抗議事件」の顛末についての記録があります。これは、鶴山先生が会報に骨法批判論文を掲載したことに対する抗議だったのですが、読み物として面白いこととは別に、さすが鶴山先生、この対応に危機管理、クレーマー対策の妙があり、大東流の戦略思考とはどういうものかについても書かれていますので、ご紹介します。(全10回)
なお、堀辺正史(ほりべせいし=当時45歳)は、その武術の伝承や創始の由来がよく変わることで有名な武術家でした。

さて、ここで鶴山先生が会報に骨法批判論文を掲載するに至った経緯を簡単に述べておきます。
昭和60(1985)年ベースボールマガジン社発行の「空手と武術」という雑誌6月号に骨法52代司家を名乗る堀辺正史が骨法の発生起源は万葉集と密接な関係があるとする「民族拳法・柔術史観」の連載を始め、7月号の中で鶴山先生の図解コーチ合気道を引用の上、批判していたことから、これを先生は自分への挑戦と受け止め、「彼の誤った短絡的な直言に対して私の所感と、堀辺正史技法に対する感想と意見を会員諸兄に対しご報告すべき義務がある」との趣旨で掲載(全18回)に至ったのです。

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