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柳生宗矩一族と松平信綱4

徳川幕府の統治は、戦国領主制を踏襲しつつ大名領国方式に徳川一門による統一封建権力を併存させるというものだった。現代の地方自治制度と似ている。また、会社で言えば本社と支社の関係に似ているが、支社には独立採算制が認められている。本社は支社同士がシェア争いをしないように調整する役割と権限を持つが、それぞれの活動には干渉しない。ただ、支社役員のごまかし・無駄遣い等の監視は欠かせないのである。不都合があれば支店長の交代も行なわれる。幕府は巡見使を派遣するという方法で監察していた。

秀忠時代までに基本的な大名配置は終わっていたが、さらなる安定を求め外様大名から譜代大名への改易や減封を図ろうとしていた。その有名な例が、寛永16(1639)年に起こった会津騒動である。

会津藩は、蒲生氏の移封により加藤氏が藩主となっていたが2代目明成が暴君であったため、家老堀主水(もんど)の出奔事件が起きその後、騒動となったのである。寛永18(1641)年家光の裁定により主水は処刑され、その2年後加藤氏は減封され、家光の異母弟である保科正之が会津藩主となったのである。
ところで、騒動の詳細等は、会津に派遣されていた宗矩の門人から報告されていたようだ。初代藩主加藤嘉明(よしあき)は、秀吉家中の「賤ヶ岳七本槍」と称された人物で、後に家康に与しその功績から会津40万石に移封された。明成はその息子であった。『古今武家盛衰記』によれば「明成は闇将にて、武備を守らず、ただ金銀珍器を好み、臣庶国民の困窮を顧みず諸人の肉を削りて金銀となし、集めんことを悦ぶ。その金銀を集むるに皆一分にしてとり集む。時の人これを加藤一分殿と称す」とボロクソだが、その実、若松城を改修し、銀山を開発、諸街道等の整備などいわゆる殖産興業に尽くした名君であった。そうすると、伊達・上杉・加藤の三家がもし連合したら大変なことになる。外様大名加藤家は目の上のコブであったわけだ。形の上では会津40万石を幕府に返上ということになっているが、信綱らの思惑どおり排除できたのである。宗矩は表に立つ悪役、信綱は裏で仕切るという役割分担であった。

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