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合気と柔術4

明治31(1898)年西郷頼母が日の目を見ることもなく、名前もなかった「公武合体用の全国統一武術として構築されたもの」を大東流と名付けた。
この理由は、明治28年「武道を奨励し,武徳を涵養し,国民の士気を振作する」ことを目的として大日本武徳会が創設され、柔道・剣道の形の統一や古武術の保存などが企画されたことを意識したからである。明治末期に流行していた大東圏思想にちなみ大東流とした。大東とは、極東の意味で詩経にも登場する古い言葉であるが、ここでは大東圏(中国・朝鮮・日本)の意味で大日本武徳会の武術を超えるものという意思表示であった。
大日本武徳会創設への動きは西郷四郎を通じて頼母の耳にも入っており、欧米式ではない日本統一武道という発想に思うところがあったのだろう。公武合体用の武術として庄内藩を始めとする東北連合諸藩の参加によって開発された新武術。まさに公武合体という政治動向と密接にかかわっていたのだ。関西の蒔田氏のように公武合体は政事活動であった武術の誕生とは関係がないとするのは、歴史の事実を知らないから言える言葉なのである。公武合体は政治改革であったから新体制のための諸準備が進められ、例えば、国内外担当事務宰相の設置準備など明治以降の内閣制度に近い案などが検討されていた。全国統一武術もその一環なのである。徳川幕府を廃止し天皇を中心に300諸公が一体化する政治形態の中での公式武術であった。

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