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戦国時代の金銭事情(下)

一方、当時も利息制限の対策は講じられたようで、1547(天文16)年11月11日付けの将軍家からの触状(ふれじょう=触れ知らせる書状、回覧)がある。(意訳)
一、利倍(高利で貸して元金を増やすこと)のために米銭(べいせん)を借族(かすやから)、利息四割、五割と申すこと、余りに高利である。質物を入れるなら二割、質草がないなら三割で貸すべきである。
一、利息を下げて、質草を入れなければ今後、米を貸さないという者がいたら、当方へ連絡すること。
なお、触状中の借族は、「貸」の誤植ではない、借りるも貸すも同じであった。
いかに高利が横行していたかは、多くの記録に残っている。年利十割も珍しくなかった。これが米、麦などの場合は十二割にもなった。月に三分(3%)というのが最も安い金利とされていた。
金銀銅の相場は常に動いていたし、天候次第で米の値が変わり参余如何で銀の価格も上下動する。才覚のある両替屋が儲かるわけである。
「将軍記」にこの時代の財テクの記述がある。要旨は・・・富裕の者が金銀を借りて高利を償う者にお金を貸し、その者から又貸し、又貸しと金利をつり上げ利ざやを稼ぐ・・・というものである。江戸時代のレートだと、金1両=銀50~60匁(もんめ)=銭(銅)4貫(4000文)だったそうだ。金:銀=1:10~11の比率である。当時は、砂金を竹筒や布袋に入れて量目を量り、物や銀子に換えることも行われていた十両(165g)の重さの砂金一包を一裹(ひとつつみ)といい、「両」の語源となった。当時は丁銀を必要なだけ切り取って計量し支払うというのんびりしたことをやっていた。したがって、目減りする分もあるし、砂金を小分けするうちにどんどん減ってしまうこともあったが、後世のように金の品位を下げて政府が儲けるという悪辣な考えはなかったので、分かりやすかったとも言える。

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