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大東流基礎理論-戦術と戦略(下)

ところで、徳川時代は今で言う地方分権制をとっていたが、中央政府たる幕府は列強諸藩を監督する立場にあった。列藩が分裂や紛争等を起こせば調停する、軍事(大砲・鉄砲・武芸・武術)はもちろん諸藩の経済バランスにも眼を配り、分割統治の権限の範囲を超えた場合、幕府は経済負担を強いる等で諸藩のバランスをとったのである。幕末期になると、このことが外国貿易の認定問題など顕在化し薩長とのイサカイ原因の一つになったのである。つまり、情報収集と複眼的視点が欠かせなかったということだ。
さて、惣角にこのことを教えた西郷頼母は、会津藩家老の中では異色の存在であった。他の家老とは違った考え方であったということだ。
頼母の父近思(ちかもと)は藩主三代にわたる江戸詰家老であった。頼母は27歳まで江戸で修行しており、江戸家老のあり方を学んだのである。会津松平家は江戸城中では、大廊下詰に次ぐ溜間詰(たまりのまづめ)の格式であり、譜代大名家として他藩とのバランスを考え戦略的な付き合いを実践していたのである。戦術的発想の主戦派に対し、戦略的配慮からの反戦派であったということだ。
戦術的な小野派系とは、現在の警察で例えれば、ピストルをもつ警官のようなもので、これは無防備な人体には効果があるが、機動隊の重車両や防弾チョッキなどには対抗できない。こういった次元の違うものを戦略的な江戸柳生系合気柔術として学ぶのである。

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