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西郷頼母と大東流2

「英名録」(2冊目)の最初の記録は、明治29(1896)年で元仙台26,300石 陸前国涌谷城主 伊達安藝 改名亘理胤正(わたりたねまさ)外 元家中である。これが惣角の地位を安定させるきっかけとなったものである。

それまで、元足軽武士を相手に試合試合の毎日を渡り歩いていた惣角が、突然、涌谷(わくや)伊達家の当主の長男(当時19歳、後に衆議院議員も務める)に指導することになったのか、否、指導するチャンスに恵まれたのか?

頼母の添状なしには考えられない。頼母が宮司を務めていた現福島県伊達市の霊山(りょうぜん)神社は旧伊達郡(豊臣時代に伊達政宗が現在の宮城県・岩手県南部に転封されるまで、伊達氏が支配していた。)であり、このことも関係していたのかも知れない。なお、亘理胤正は明治36年にも妻と共に「英名録」に記載があり惣角の教伝を受けている。

そして、免許皆伝の翌年、明治32年から宮城県登米(とめ)警察署長を筆頭に警察署・学校・裁判所などの役所の幹部に教伝することとなったのである。

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