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大東流の三大技法(続)10

ところが、ここで問題が生じました。対象者たる大本教幹部の人たちは、そのほとんどが武術の素人でした。宴会芸・旦那芸ではなく、曲がりなりにも護身法を指導するには植芝盛平には知識が足りなかったのです。大東流柔術の指導助手を務め、武術の実力はあったのですが、指導者としては知っている技が少なすぎたからです。ここで判ることは、武術家(実践者)としての実力と、武術指導者としての実力は違うということです。指導を受ける側のレベルも認識の度合いも千差万別ですから、それに合わせた技法を指導する必要があるからです。

そこで、師たる武田惣角を招聘することとなったのです。もちろんスポンサーたる聖師出口王仁三郎の了解を得てのことでした。

状況を聞いた惣角は、従来の指導内容を変更し、初めて江戸柳生系合気柔術の技法を公開したのです。惣角なりの判断で、受講者はそれなりの社会的地位があるものとみなされた訳です。面白いことに、裁判所や警察署など官公庁の職員は、惣角の基準からすれば比較的身分の低い士族だったということでしょう。

ここで半年間11回にわたり合気道の原型となる合気柔術が植芝を助手として指導されました。この講習の修了に当たり、惣角は植芝に教授代理の資格を許し、その証として新陰流兵法の伝書である「進履橋」を発行しました。当時は、惣角以外誰も知らない秘事でしたが、今回指導した合気柔術は江戸柳生系合気柔術であるという証拠だったのです。

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