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骨法の堀辺が来た(続)15

(承前T君のレポート)
私(T君は26歳にして空手歴8年)の知人に、空手修業時代に吉丸氏と一緒に修行した人がいます。その知人から聞いた話しをもとに『換骨拳入門』を読み解くと真相が見えて来るのです。

吉丸氏と堀辺氏との出会いは、同書16頁
「大東流についてお伺いしたい」との電話を受けて、私(吉丸)は中野の「拳医会診療所」に出かけた。(中略)私は早速、大東流合気柔術について説明を始めた。(中略)」とありますが、これは脚色です。

真相は、手首を痛めていた吉丸氏が、人づてに聞いた堀辺氏の治療所に行き治療を受けたのが最初だったのです。同書によると、
「昭和25年上京した私(吉丸)は、当時ほとんど無かった空手道場を探し目黒の修道館に入門したが、その後やはり沖縄出身の泉川寛喜先生(泉武館)につき剛柔流を学ぶことになった。昭和32年仕事を捨てた私は御好意に甘え泉川先生のお宅にころがり込み代稽古のような形で数年間を過ごさせていただき・・・」(25頁)
とあるように吉丸氏は空手の指導員でした。当時の空手道では巻わらで手首を固めることを基本としていましたし、指導者ともなれば板割りや瓦砕き等のショーも見せなくてはなりませんでした。

「実をいうと私は四、五年前より手首関節とひじ関節を痛め、強く手を握りしめるということが出来ない状態であった。空手時代はたまに怪我をしてもそれほど後に残るようなことはなかったが、柔術では相手に力一杯逆手を掛けさせるためやはり痛めることもあり、上級者という手前、表面は何でもないという顔をしていたが、技を掛けるときに力が全く入らないのには全く参って、心中で武道はこの辺であきらめるべきではないかと観念している状態だった。」(23頁)空手の鍛錬で固めた手首に対して力一杯の逆手技を掛ければ、いろいろ痛めるのは当然の結果であったと思われます。(続)

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