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山嵐3

小説の山場となる柔道対柔術の試合の中で山嵐が使われているのである。この山嵐は柔道家あこがれの技であったが、この技を成功させた柔道家はいない。四郎の山嵐を再現出来なかったのは。講道館柔道の原形が天神真楊流柔術であったからである。講道館四天王の一人であった横山作次郎が大正時代に発行した自著において、山嵐の技は「背負投げと払腰の合いの子」と説明している。これは自分の知っている楊心流の視点で見ているからで、相手の裏に入るところは見えていない・意識にないのである。知らないからやむを得ないということか。
そうすると山嵐は私の手で世間に公表すべきであり、「図解コーチ合気道」では、そのサワリ「明治19年の警視庁大会における柔道対古流柔術の試合で、目の覚めるような山嵐の荒技を使い、後年『西郷の前に山嵐なく、西郷のあとに山嵐なし』とまで言われた。」と紹介した。
西郷四郎は講道館柔道の達人として知られているが、居合や弓道にも通じており九州随一の実力者と評されたのであった。四郎は士官学校入試のため西郷頼母のところに下宿しており、その当時大東流柔術を稽古していることがうかがえる。なお、四郎は身長低かったため士官学校入試を受けられず。小説のとおり嘉納治五郎の道場に入門したのである。四郎が講道館に入門したのは明治15年、山嵐の使用が確認できるのが明治19年以降、この間、明治17年に四郎は西郷頼母の養子になっている。ここに大東流後継者としての四郎を意識した指導があったことが推定される。しかし明治29年に四郎は頼母のもとを訪れ大東流との決別を告げたようである。

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