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伊賀百人組

新宿区百人町の地名の由来となった鉄砲組百人隊に関するメモです。

ACC東京がある「大久保スポーツ会館」は、新大久保駅から歩いて10分である。この新大久保駅から1分のところに、皆中(かいちゅう)稲荷神社がある。この皆中とは、鉄砲が百発百中(皆中)するようにという意であるそうだ。
「入鉄砲に出女」と言われたように、江戸に持ち込まれる鉄砲を防ぎ、大名の妻(人質)が江戸から出ることを防いだのだ。このように治安と大名統制上から厳重に監視していたが、江戸には鉄砲組百人隊が置かれ江戸城内の守備や将軍外出時の警護に当たっていた。
ところで、百人隊の武士は伊賀忍者で編成されていた。彼らの階級は同心で、武士階級としては最下級に近い足軽であった。下級武士の彼らの禄高は三十俵三人扶持(ふち)、1年間に三十俵つまり10石5斗の米に加えて、三人扶持で年に3石6斗の米が支給されたそうだ。現在の金額(昭和58年当時)に換算すると年間70万円ほどにしかならないそうだ。
徳川250年、戦はなく、彼らの活躍の場も出世の機会も無く、生活苦の中で内職に励んだ下級武士たちの鉄砲組百人隊であった。

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