見出し画像

旅行が好きだという話

好きなものの話でもしようと思う。

この間書いたnoteで少しだけ話が出たので、今回は旅行について。

私は旅行好きの両親のもとで育ったので、小さい頃から色んな場所へ連れて行かれた。
国内旅行へも海外旅行へも毎年行った。初めて飛行機に乗って海外へ出たのは記憶にもない赤ん坊の時だったし、小学校高学年になる頃にはもう一人で出入国手続きを終えて飛行機に乗れるくらいになっていた。

今は新しい年が明けると必ず連休チェックをするし、旅行を終え帰国するとすぐに次の旅行のために貯金を始める。

「行きたい」と思った時に、いつでも旅立てるように。

銀行口座にある程度貯まった数字を確認すると、未知なるものへの探究心や好奇心が湧き上がり背中をとん、と押してくれる。

旅行には、新しい発見がツキモノだ。

それは目的地に対する認識の変化だったり、移動中や準備の過程で新たに得る知識だったり、こちらの視点が(大人になるなど)変わる事による楽しさだったりと、多種多様に。

もし日本にしかいなかったら、ぬるいビールに氷を入れて飲む美味しさも知らないままだっただろう。

その国のことは、実際に行って自分の肌で感じないことにはこれっぽっちもわからない。人とのコミュニケーションだって同じ、実際に話をしてみるまで相手の人となりはわからないものだ。

人が物事を判断するとき、基準になるのは各人が持っている「フィルター」であり、それはこれまでの経験から形成されるものである。完全にクリアなフィルターというのは存在し得ないのだが、クリアな状態を保とうと努力する必要はあると思う。なぜなら近代化した国のほとんどでは、差別や偏見はモラルに反する事だからだ。その為には当然、たくさんの経験と知識が基盤となる。

旅行には、もちろん予期せぬハプニングもある。
予想不可能な事態によって、自分の本質的な部分と否応なく対峙させられる瞬間が幾度となくある。
それは逆に言えばわかりやすく成長するきっかけになるということだ(成長の定義は人に寄って様々だが、ここでは肝っ玉がデカくなるという事を意味する)。

日常の予測できる範囲内で生活をしていると、中々こういうきっかけを掴むのは難しいように思う。如何なる時も自分の欲求を満たすためには、能動的になる必要があるのだ。

「全く知らない土地に行くこと」というのは、「自分の原点に返ること」に繋がっている。

いつか読んだ本にもあったが、「国境」とは言わば地図的な区切りのことであり「県境」となんら変わらない。私は埼玉から東京へ出勤するように、東京からソウルへ行ったりする。
とてもいい時代だと思う。スマホ、パスポート、クレジットカードがあれば、いとも簡単に日本から飛び出せる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?