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The Blind Side〜陽の目を見ない場所に光を〜Vol.2:ストリングス・広谷涼

広谷涼、22歳、東京都出身。
出場機会、怪我、コロナ・・・、彼の野球生活も順風満帆ではなかった。

「正直このままやって希望が見えないなって思っていた中で、一回就活のために野球を中断して就活してたんですけど、面接で話しているうちに自分はやっぱりずっと野球をしてきて野球のことばっか考えて生きてきたので、人生の中でこれからも野球やスポーツ全般が軸になっていくんだろうなって考えていたところで紹介されてこのウィンターリーグが最後のチャンスだと思って参加しました。」

広谷涼

兄・達也の背中を追い小学校2年生の時に野球を始めた広谷は、他の同級生たちと比べて入部したのが遅く出場機会に恵まれなかったため、他のチームに移籍することを決める。中学は左ピッチャーを教えるのが得意という話を聞いて誘ってもらった硬式シニアチームに入ってプレーするも、大会前に骨折したり、何かと大会前にアクシデントに見舞われプレーできずその時点では高校では野球をやらない予定だったのだが、そのタイミングで高校3校から誘いがあってここで野球を辞めるのは勿体無いという話をされ、5歳上の兄がプレーしていた高校に進むことになる。

高校の時も幸先は良かったが、だんだん投げ方がわからなくなり、自分なりに頑張っていたが結果が出ず、兄や兄の周りの人たちの助けも借りながら少しずつ掴んできた高校3年生のタイミングで腰の疲労骨折をしてしまい、高校野球が終わってしまう。

高校時代オーバースローで投球する広谷


高校野球が終わり、高校進学時と同様、大学では野球はやらない予定でいたが、受験の時に独立リーグというものがあることを知り大学を出た時に野球に自信があれば独立リーグを受けてもいいかと考えていたが、ここでも大学入学するタイミングでコロナが流行し、大学の野球部の活動休止になりいつ再開するかもわからない状態だったため、大学野球部への入部も諦め、兄の所属していたクラブチームに所属することになる。
コロナ禍でチームが苦しい中、少しずつチャンスは与えられてはいたが、投げてても上手くいかないと感じていた。

上記の本人のコメントでもあるように、野球やスポーツを軸に生活をしていきたいと思っていたところに兄にある人を紹介される。

ジャパンウィンターリーグで副代表を務め、リーグのヘッドパフォーマンスコーディネーターも担当している山田京介だ。

「お兄ちゃんがやっていた練習会に参加していた時に、弟です、って言われて紹介されたのが涼くんだったんです。元々お兄ちゃんはみていたんですけど、ある日のセッションの時に弟も連れてきていいか?と聞かれてその時に初めてじっくりみることになりました。」

山田はさらに広谷の最初に会った時の印象をこう付け加える。

「初めて会った時はオーバースローで投げてたんです。ただ、体つきを見た時にオーバースローが難しそうな骨格だったんです。しかもイップスで無理矢理上に出そうとしていたので、それならサイドスロー、スリークォーターあたりで投げた方が投げやすいよっていう話をしてそれから月3回くらいでレッスンという形で見ていくようになったんです。」

高校1年時には130キロ後半を投げていた広谷もそこからイップスなどを経験し120キロ前後まで球速が落ちていたので、投球フォームを変更することに迷いはなかった。そして実際にサイドスローで投げてみると投げやすい感覚がすごくあった。

サイドスローで左打者を翻弄

2023年の4月後半から山田京介と二人三脚で新しいフォームでレッスンを重ねていく上で、8月にウィンターリーグの参加を決めることになる。

「初めは大学も卒業して就職するし、さらにクラブチームでも投げれてない状態だったから、投げられるようにしたいという感じだったんですけど、広谷くん(兄・達也)から『このまま野球を終わらせるのは涼にとっても良くないからどうにかできないですか?』と相談されてレッスンを続けて行って所属チームの相模原クラブでも少しずつ試合に出られるようになってきて、四球は出すけど、なぜか打たれないっていう状態にまでなっていきました。それから本人の気持ちも上がって行ったような感じです。」

山田はウィンターリーグまでの広谷の成長をこう語る。そんな中広谷はウィンターリーグに参加することを決めた時にこう考えていた。

「就職するつもりで、ウィンターを最後に野球を区切りにしてもいいのかなと思ってました。」

野球に区切りをつける

独立リーグも夢を諦める場所、という話を度々耳にしたことはあったが、このウィンターリーグもそういう場所の位置付けとして与えられた場でもある。

そして、広谷はJWLに参加することになる。

当初はクラブチームの延長のような感じでふわっとリーグに入って行った広谷は、海外選手や全国から野球の経歴を持った選手たちと沖縄で対峙して、今までやってこなかった環境がとても新鮮に感じていた。

何より今ままでどこかで劣等感を感じていた海外選手に対しても、実際に対戦やプレーを見ていく中で意外と全員がハイレベルで野球をやってきたわけではないんだと感じ、自信が生まれるようになり、自分自身がもっと上手くなっていけるのではないかと感じ始めていた。

広谷も西坂同様、このウィンターリーグで変化を遂げた選手の1人である。最初の登板では120前半しか出なかった球速もリーグが終わる頃には最高球速が135キロまで伸びることになる。

「ウィンターリーグのバイトできていた子とたまたま話す機会があって、ウィンターにきて忘れていた感覚を思い出すことができたんです。ウィンターにきてから色んな人に話を聞いてて、でも自分の好奇心で色んな人に聞いてたら色々混ざってしまったフォームになってしまって、その子と話してたらもっとシンプルに考えられることができるなと思って、そこにプラスアルファでこういうメカニクスの感覚が出てくるんじゃないかっていう話をしてそこからだんだんと感覚が良くなってきました。」

広谷は当時のことをこう振り返る。

このウィンターリーグで野球に区切りをつけようと思っていた広谷ではあったが、思ったように成果を上げれていなくモヤモヤしていて、ただ、自分が思った以上に整った環境で野球ができる機会なんかこの先ないと考えていたところにアルバイト先の代表でこのウィンターリーグにも関わっている千葉絵梨香からウィンターリーグ期間中にプレー以外の日はバイトをしながら参加するという選択肢を与えてもらい、後期もそのまま残り参加することに決める。

副代表の山田京介も前期が終わるタイミングで広谷の変化を感じていた。

「ウィンターまで7ヶ月くらいやってまだ未完成のとこの方が多かったですけど、誰にも持ってないものを持っているからもしかすると花が開く可能性はあると思っていました。今までやっていたところのレベルじゃないし、元々環境変化への対応っていうのは苦手なのはわかっていたので苦戦するんじゃないかっていうふうに考えてました。ただ、どこかで成功体験をすれば可能性があるんじゃないか、そのためには試合に出る回数を増やしていかないといけないと感じてました。目に見えて変わっていくのを感じていたのでこのまま帰るのは勿体ないと思い、前期で帰る理由を聞いたら、旅行と資金不足だったので(笑)、千葉さんに相談して資金面はどうにか出来ることがわかったので涼くんに伝えて全日程に変更してもらいました。」

後期も残ることになり、再び二人三脚でセットポジションや投球フォーム、内容を見直していく事で確実に変化が成果に現れてきた。
後期の終盤にアドバンスのチームとの対戦で、社会人、独立の選手たちが自分のストレートに詰まったり振り遅れているのを見て自分でも力がついてきていることを実感し、トライアウトの最後の試合で好投し、そのタイミングで視察に来ていた兵庫ブレイバーズの山川監督からオファーを受ける。元々就職することしか考えてなかった広谷に突然舞い込んできた独立リーグからのオファーを広谷はどう考えていたのか?

「オファーを頂いた時は率直に嬉しかったし、『NPBを目指せる』と言ってもらった時は、まだ自分にもそういう可能性があるんだって感じられたのは、この先にも野球での未来があるんだって感覚がありました。ただ、その時点では(試合後で)気持ちが上がってたっていうのもあるし、この時点で決めるのは危険だな、と感じ一回持ち帰ってから考えます、というふうに伝えました。」

NPBでプレーできるかも、という期待に少し胸を膨らませた広谷ではあったが、広谷は最終的にはこのオファーを断ることに決めた。

「自分自身ビジネスにやっぱり関心があって、働く中で達成させたいようなことだったり、やりたいような生活だったり、そういうことを明確に描けてましたし、そっちの方が自分には可能性が広がっていくんじゃないかっていうのを改めて感じていました。もちろん選手としてNPBを目指すということも小さい時からの夢でもあったのでやってみたいなという気持ちもありましたけど、それよりもさらにやりたい夢が大学生になってから浮かぶようになっていたので、プロ野球選手になる、という夢よりも達成したい夢、世界観、価値観が見つかったので今回お断りするという形になりました。」

では、広谷の達成したい夢とは一体なんなのだろうか?

「もっとスポーツをエンターテーメントとして価値を上げていきたいです。独立リーグを通してもっと野球に触れる人を増やす、とか、プロとしてやれる環境をもっと増やす、とか、そういうことをするためにどうやって球団として再現性を上げていけばいいのか、ということであったり、また、自分自身も山田さんに会うまでは人に教えてもらうなんて経験なんか全くなかったんですけど、意外と知られてないけど科学的に根拠が出てることだったりとか、メソッドのようなことが世の中にあまり知られてないなと思って、それを世の中の人に伝えら得れるようなシステムを作りたいと思ってました。野球だけに限らずそのような可能性の広がりを就職する方の道に感じています。」

野球に区切りをつけるつもりで臨んだこのジャパンウィンターリーグ。広谷自身は最終的にこのリーグを通して何を感じたのだろうか。

「具体的には全てにおいて成長できる環境であったかな、と思います。自分の技術的にもそうなんですけど、野球をやる上でのコミュニケーションだったりだとか、外国人とコミュニケーションをとりながら野球をやるとか、そういうところにも成長を感じてましたし、実際に評価してくれている人がいてその中で結果を出さないといけない、とか、ここで絶対に抑えないといけないというプレッシャーもある中で野球をできたというところで、プレッシャーを跳ね退けてピッチングが出来たという成功体験というメンタルの部分の成長も感じられた環境でもありました。また、ジミー(Jimmy Jensen:ゲームコーディネーター)とかも含めて色んな人と話せたのでそういう面での視野の広がりなど今後の生きていく上での色んな可能性が見えてきたりして、そういう面でも成長を感じれた環境だったと思います。」

笑顔でインタビューに答える広谷

最後に広谷はウィンターリーグについてこう語った。

「約40万払って、かつ外国人もいて、しかも沖縄で1ヶ月も知らない環境で野球をやるっていうのはすごい特殊でなかなか飛び込みにくかったり、自信がないからやめとこうって思いがちなのかもしれないですけど、実際来てみたら、みんな野球が好きで、それがグローバルに広がって、外国人選手もみんな野球が好きでここまできて、という環境でもあるんで、野球を楽しめるような環境でもありますし、お金と時間以上の価値をすごく感じられる環境なのかなと感じれましたし、『今の環境に満足していない』とか、『もっと上手くなりたい』とか、『次のステージとかもっと色んな可能性を広げていきたい』って考えが少しでもあるんだったら人生としてもすごく面白いんじゃないかなと思ってます。」

野球に区切りをつけようと臨んだウィンターリーグで、球速も12キロあがり、独立球団からオファーももらい、自分の中で野球選手としての成功する可能性を感じながらも当初の予定通り内定をもらっていたIT企業への就職を決めた広谷。
野球以外のところでも魅力と可能性を感じた1ヶ月を終え、広谷は再び年始に山田京介のレッスンを兄・達也と受けていた。

SNS上でその光景を見た筆者は最後に慣れない就職先の大阪で広谷に野球を続けるのか質問をしてみた。すると広谷は少しはにかんだ笑顔でこう答えた。

「野球は続けるつもりです。」


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