無を愛しているのかもしれない

突然誰でもないものになりたくなる時がある。僕はこういう風に文章を書く人格と、顔を出して被写体として活動している人格がある。それだけではない、別の何かになりたいという感情に苛まれるときがある。
それはいきなり来るもので、きっかけも何も特にないのが厄介なところである。何者でもない誰かになってみて、別の人間としての人生を歩むという行為に、実に興味がある。僕は、他人に興味のない振りをしているくせに、自分でも驚くほど他人の人生には興味があるようだ。同じ空を見上げて、君は何を思うのか、川のせせらぎを聞いて、君は何を感じるのか。僕はそれが知りたのだと思う。
僕はある意味で変な完璧主義者であり、貪欲な学生の感情を残したまま大人になった歪な者なので、僕の知らない世界があるのが気にくわないのである。他人の思考までも知っておきたいとすら思ってしまう、大変おこがましい部類の人間なのである。
だからこそ、誰かの頭の中を知って自分はまた一つ知らないことが減ったぞ、という自尊心を見たしたいのかもしれない。

ふとすべてのつながりを切ってどこか遠くへ引っ越ししたくなった。仕事もやめて、別に貯金なんてないけれどふらりと遠くへ行きたくなる。それを感情的にできるほど僕は勇気のある人間じゃないのも確かで、やろうと思っても「将来どうしよう」とか「迷惑かけちゃうかも」なんてことが頭をよぎって出来ないでいる。小心者なのである。遠くの、僕のことを知らない世界は僕を受け入れてくれるのだろうか。僕の知らない場所は僕の目にどう映るのだろうか。そんなことばかりを考えて、ふと遠くに行きたくなるのである。出来るのなら、宇宙にでも、深海にでも行ってみたいものだ。

そしてふといなくなってしまいたくもなる。人間は無情なもので、存在していると飽きが来る。僕自身もそうだし、周りの移り変わりを眺めて20年近く生きていればそれは自然の理だと気付いていなければおかしい話である。
ふと居なくなる。
それが死であるのか、逃亡であるのかは別として、居なくなってしまいたくなる時がある。それがもし来たら、周りの友人たちはどんな顔をするのだろうと、密かに誕生日の前の贈り物を渡す子供のような無邪気な気持ちになるのだ。人間は死んだものを美化し、偶像としてあがめる性質がある。それが幽霊という形であったり、思い出という形であったりするのは人それぞれであるが、そんな風に美化されるのが僕は羨ましいのである。

僕は無になりたいのかもしれない。いなくなった後に残った軌跡が一番大事だと思うから。僕自身なんて、無くてもいい。僕が残した何かがきちんとそこに有ってくれるのであれば。

有意義に使わせて頂きます。