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60年経つと変わる感性

今朝は万葉集の、大伴旅人を読んだ。

『万葉集』巻五の、大伴旅人が詠んだ亡き妻に捧げる歌。中学の頃に、国語の先生に勧められて詠んだことがある。『万葉集』を読み始めたが、これが全く面白くない。当時は言葉遊び的に捉えていたので、俳句の方が面白かった。

少し絞って読むと良いと言われ、大伴旅人や、この後の山上憶良も読んだ記憶はあるが、感想も内容さえ全く覚えていない。

今朝、あらためて読むと、ただただ争い事ばかりで過ぎた36年間の夫婦生活が、妙に懐かしく思い起こさせる。友人からは考え直せと言われ、親戚からは「身上調査書」まで渡された。全ては両親のパチンコ依存症の事ばかり。成り行きで結婚したが、あらためて依存症の恐ろしさを感じた36年間だった。妻の死を以て逃げ出せた。

面白いもので、10年も経つと物の見方は変わるものだ。そして『万葉集』の読み方さえ、わずか数首の歌で長い時間を過ごすことも出来る。

蓋(けだ)し聞く、四生(ししやう)の起き滅ぶることは、夢(いめ)の皆空(むな)しきが方(ごと)く、三界(さんがい)の漂ひ流るることは環(たまき)の息(や)まぬが喩(ごと)し。所以(かれ)、維摩大士(ゆいまだいし)は方丈に在りて、染疾(せんしつ)の患(うれへ)を懐(むだ)くことあり、釈迦能仁(しやかのうに)は、双林(さうりん)に坐(いま)して、泥亘※1(ないをん)の苦しみを免るること無しと、。故(かれ)知る、二聖(にしやう)の至極も、力負(りきふ)の尋ね至るを払ふこと能はず、三千の世界に、誰か能く黒闇(こくあん)の捜(たづ)ね来(きた)るを逃れむ、と。二つの鼠競(きほ)ひ走り、目を度(わた)る鳥旦(あした)に飛び、四つの蛇(へみ)争ひ侵(をか)して、隙(げき)を過ぐる駒夕(ゆふへ)に走る。磋呼痛(ああいたま)しきかも。紅顔は三従(じゆう)と長(とこしへ)に逝(ゆ)き、素質は四徳と永(とこしへ)に滅ぶ。何そ図(はか)らむ、偕老(かいらう)の要期(えうご)に違(たが)ひ、独飛(どくひ)して半路に生きむことを。蘭室(らんしつ)の屏風徒(いたづ)らに張りて、腸を断つ哀(かな)しび弥(いよよ)痛く、枕頭の明鏡空しく懸(かか)りて、染竹※2(せんゐん)の涙逾(いよよ)落つ。泉門一たび掩(おほ)はれて、再(また)見るに由無し。嗚呼哀(ああかな)しきかも。
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あるいはこのように聞いている、生き物の生まれて滅ぶことは、夢のように空しきことで、三つの世界に漂い流れることは、まるで円の環のように繰り返されるようだ。それ故に維摩大士は方丈にあって病気の憂いを抱き、釈迦も沙羅双樹の下で死の苦しみを逃れることは出来なかった。故に知る、二人の至極の聖人も万物の変化を退けることは出来ず、三千世界の中で誰も死の黒闇を逃れることは出来ないのだ、と。昼夜の二匹の鼠は争って走り去り、人生は目の前を飛ぶ鳥のように一朝にして消え、四大の身は先を争って、隙間を過ぎ去る馬のように一夕にして走り去る。ああ、なんと空しいことだ。若い紅顔は婦徳とともに永遠に消え、若く白い肌もまた婦徳とともに永遠に滅ぶ。どうして想像することが出来ただろう、夫婦の偕老の約束を違え、孤独な鳥となって人生の半分の路を生きてゆくなどと。香しい閨の屏風は空しく張られて、断腸の哀しみいよいよ深く、枕辺の鏡は空しく懸ったままで、竹を染めたといわれる涙はいよいよ流れ落ちる。黄泉路への門は一たび閉じると開くことはなく、再び逢うことも出来ない。ああ、哀しいことだなあ。

【万葉集入門】よりお借りしました
2023/10/11 万葉集入門、「日本挽歌」漢文の訳
http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu5_794kanshi.html

万葉集入門

友人の山上憶良が、大伴郎女の死後100日目に、旅との心情を詠った歌も、より悲しみを深くする。

時間というモノの面白さを、今朝はあらためて感じた。時間は「雪」のようなモノで、全てを真っ新な、無垢の世界に変えてしまう。見苦しいモノを覆い隠し、聞きにくき耳障りな音も、「シンシン」という無音の中の、清浄な音に変えてしまう。

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