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猫からの教え

高齢者にとって、ペットとの暮らしは楽ではない。というか、しだいに難しくなってくる。

我が家の猫2匹、一昨年の6月から共に暮らすことになった。広いキュウリ畑の、農機具置き場の、小さな小屋の床下で生まれた。母猫は黒猫で、ほとんど鳴き声を出さなかったので、子猫達も声を出さず、気付くのがお遅くなったらしい。

猫好きの人達に声を掛けて、我が家と縁のあった2匹以外は直ぐに引き取られた。痩せて小さな母猫と、声も出さずに寄り添って、愛想もない2匹が残され、親子3匹を保健所に連れて行くことになった。

18年間近くに居てくれたキータン

独居老人になってから、いつも手の届く範囲に居てくれたキータンが亡くなり、それを見ていた娘がちょうど良いと、一人では寂しいでしょうと、けっこう強引に2匹を引き取る様に勧めた。お父さんが難しくなったら家で引き取るから、という約束で、誰に引き取られても良いように、家猫として外に出さないようにした。いくら暴れても、自分が死んだ後はこの家は取り壊すので、もう使うことのない二階の二部屋など自由に暴れ回って好きにさせた。

次第に大きくなると、暴れ方もヒドくなり、もう二階の部屋の掃除も出来ないくらい荒らされた。今まで飼ってきた猫は出入り自由で、庭の木や草むらの中で遊び、運動が終わると家の中で寝ていた。

外で遊んでいても、家の中は汚れてくるものだ。キータンが居なくなって寂しいが、掃除の量はかなり減った。毎日掃除をしなくても、汚れたとは感じなかった。それがこの子達が来てから、毎日掃除をしても数時間で荒らされ、いくら掃いてもトイレの砂や壁紙などで散らかされる。

2週間ほど風邪で寝込んだときなど、具合が悪くても二匹のご飯の用意やトイレ掃除をしなければならず、一人暮らしの高齢者とペットが暮らすには、近くに応援する者が居ないと難しいと実感した。まして子猫の兄弟2匹となると。


ところが最近気付いた事は、もしこの子達がいなかったなら、毎日の生活は楽になるが、同時に緊張感もなくなり生活の張りも無くなっていたかもしれない。

日常の立ち居振る舞いが遅くなり、立つときなど腰痛の痛みが腰よりも臍の奥に強い痛みが走る。動き出してしばらくの間は、向きを変えるにも痛みが強い。一日中何もしないで横になっているのが楽になり、もしこの子達が居なければ、たぶん毎日寝て暮らしただろう。

仕方なくだったが、猫の世話をすることで足腰の運動になっていた。朝の散歩さえ、3日間休むと息苦しくなり早歩きが出来なくなる。わずかな運動でも、しないで居れば急激に衰えてくる。それが実感できるから高齢期なのだろう。


2週間の風邪で、周利槃特しゅりはんどくと茗荷の話しを思い出した。

釈迦十代弟子の一人に周利槃特しゅりはんどくという人が居た。兄の摩訶槃特まかはんどくと共に釈迦の弟子になった。兄は頭が良いのに、弟の周利槃特しゅりはんどくは朝聞いたことを夕方には忘れてしまうと言う。あまりにも物覚えが悪く、教えの一句さえ憶えられなかった。

兄に仏弟子として修行はムリだから、家に帰れと言われた。お釈迦様がそれを見て、周利槃特しゅりはんどくに毎日仏道修行の道場の掃除をし、その時に称えるように一句を教えられた。

周利槃特しゅりはんどくは一日中掃除をしながら、教えられた一句を称えていた。そしてある日、仏道修行は掃除と同じで、毎日毎日同じ事をくり返し、くり返して行わなければ直ぐに人間の心は汚れてしまう。そう気付いて、仏弟子の中でもっとも早く阿羅漢果あらかんかを得、仏となれる記別きべつを与えられた。

これは釈迦仏教では貴賤の差や男女の性差、頭が良いとか悪いとか、生まれ持った資質で成仏が決まるのでは無い。真剣に己と向き合い、修行することが悟りへの道となる。最も頭の悪い周利槃特しゅりはんどくが、一番早く悟りを得て記別を与えられた。


さて、その周利槃特しゅりはんどくの死後、墓の周りから茗荷が生えるようになった。子供の頃に茗荷を食べるとバカになる、などと言われるのは周利槃特しゅりはんどくの話しからきてる。と聞かされた。子供の頃から茗荷が好きで、皆にバカになると言われていたが、確か住職からこの話を聞かされた。

茗荷は冥加と同じ音で、冥加は仏からの加護を受け、万事上手く行くことだ、とも聞いた。なので、戦で勝利して名を上げられるように、戦国武将の中には「抱き茗荷」の家紋も好まれて使われた。

お前は小さい頃から大事にされ、何もしないで生きてきた。何をさせても飽きっぽくて長続きせず、いつも子守りのネエ達の世話にばかりなってる。そのままでは最も悪い人間になってしまう。どの様な環境にあっても、どの様な辛いことが起きても、自らそれに向かって行かなくてはいけない。出来るか出来ないかではなく、出来るようにいつまでも努力を続けることが、人として一生を通して行わなければならない修行だ。

そんな様な事を、菩提寺の先々代の住職から教えられた。教えられたが、一度も努力などしないで過ごしてきた。その結果が現在の姿だ。

高齢者になって、この歳で猫二匹はキツいことも多い。でも餌を用意しトイレの掃除をして、自分自身の食事作りも通して、やっと自立することが出来た。近くに子供達もいないし、今まで何くれと無く面倒をみてくれた親戚の者も代が変わった。

猫二匹と暮らすことで、やっと人としての修行が出来るようになった。猫二匹と暮らすことで、自分自身の運動にもなり、健康で修行が出来る。そのように考えよう。

毎日毎日、猫の世話と掃除を自らの修行として、誰かの役に立つように、人として生まれた目的と価値は何かと問い、仏の冥加を得られる様に過ごそう。

などと、寝てるこの子達を見て、自分に言い聞かせることにしよう。
ストーブの前で寝てて、チョット腹が立つけど・・・これは仏菩薩様の化身であり、修行を勧めるありがたいお姿なのだろう。と自身に言い聞かせて、お世話をさせていただこう。


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