思考(マインド)は心を支配しようとする ~ 古事記の暗号 9
私は、民族の深層に共通して流れるストーリーが、神話というものだと思っています。
私が「自分」だと思っているものは、私の顕在意識が創り上げてきた個人的ストーリーだとすると、神話は潜在意識に流れる集合的ストーリーではないでしょうか。
神話で語られるストーリーをシンボルと捉えると、いろんなことに当てはめて解釈することができます。
例えば、イザナギとイザナミをシンボルと捉えた場合、
イザナギ イザナミ
弥生以降の父権社会 縄文的母権社会
男性的価値観 女性的価値観
左脳的 右脳的
思考(マインド) 心(内なる声)
というふうに対比させてみることができます。
イザナギとイザナミは、オノゴロ島にて天の御柱を回り出会ったところで交合しますが、最初はうまくいきませんでした。
イザナギは、
「失敗したのは女が先に声をかけたからだ。男が先に声をかけるべきだ。」
という男が主導権を握る提案をし、イザナミもそれを受け入れ、その結果、国生み、神産みがうまくいくようになります。
その後、イザナミはたくさんの神々を産みますが、最後に火の神カグツチを産んだとき大火傷を負い、それが元で死んでしまいます。
最終的にイザナギは、黄泉の国にイザナミを閉じ込めます。
これを歴史的に見たとき、
「父権的競争社会と母権的共存社会」のせめぎ合い、
「弥生と縄文」のせめぎ合い
「渡来系と先住系」のせめぎ合い、
と捉えることもできますし、
意識の世界から見れば、
「思考(マインド)と心(内なる声)」のせめぎ合い、と捉えることもできます。
思考は常に心を支配しようとします。
私たちは、自分の心の声より、思考の声を優先しがちです。
心が「本当はこうしたい!」という声を上げても、
「ちょっと待って。そんなことをしたら、変に思われるんじゃないか?笑われるんじゃないか?非難されるんじゃないか?嫌われるんじゃないか?迷惑かけるんじゃないか?怒られるんじゃないか?親が悲しむんじゃないか?」
などなど、思考がたくさんの声を浴びせかけてくるので、それに圧倒されて心の声を聞かなかったことにしてしまいます。
あなたにも、本当はやりたいのに、まだやっていないことがありますか?
本当にやりたいことなら、今すぐやればいいのに・・・。
それをやらないのはなぜですか?
ひとつだけではなく、たくさんの理由が出てきたかもしれません。
今、たくさんの理由を述べたのが、思考(マインド)の声です。
本当にやりたいことが、心の声です。
私たちは、自分が思っている以上に、他人にどう思われるか?他人の目にどう映るか?を気にしています。
そして、自分が思っている以上に、心の声を無視しています。
スサノオノミコトという神は、やっていることはハチャメチャなのに、とても人気があります。
イザナギに「海原を治めよ」と言われたのに、その命令に従いません。
そして、「母のいる根の国に行きたい」と言って、泣いてばかりいました。
そのため、「つまらんやつだ!勝手にしろ!」とイザナギに怒られて追い出されます。
高天原では大悪党、地上では英雄と紆余曲折を経て、最終的に根の国に落ち着きます。
イザナギを思考(マインド)、イザナミを心の象徴だとすると、
スサノオノミコトは、思考(マインド)の言うことをきかず、
「心の声」に従って生き、最終的に「心のふるさと」である根の国の住民となるのです。
私たちも、潜在的に、或いは直感的に「心の声」の正しさを知っているのではないでしょうか?
本当はスサノオのように生きたいのではないでしょうか?
スサノオノミコトが特に厚く尊崇されているのは、私たちに本当に必要な勇気を象徴的に見せてくれているからだと思います。
臆病すぎる現代人を見て、スサノオならきっとこう言うでしょう。
「他人の目を恐れてどうする?むしろ、本当の自分を生きないことを恐れよ!」と。
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