見出し画像

イザベル・サンドバル――トランスジェンダー映画監督の「異質」な眼差し(翻訳)

 e-flux Journalに掲載された記事「Isabel Sandoval Seeing as the Other」を翻訳して紹介します。

 イザベル・サンドバル(Isabel Sandoval, 1982-)は、NYを拠点に活動するフィリピン出身のトランスジェンダー映画監督です。これまでに3本の長編劇映画を製作し、『リンガ・フランカ』(2019)では監督、脚本、製作、編集、主演を務め、ヴェネツィア国際映画祭に76年ぶりに出品したトランスジェンダーの映画監督となりました。

 サンドバルは2021年、MIU MIUの短編映画プロジェクト「Women's Tales」の21番目の作品「Shangri-La」の監督に抜擢されました。このプロジェクトにはこれまでにアニエス・ヴァルダ、ルクレシア・マルテル、ミランダ・ジュライ、河瀨直美らが起用されており、初のトランス女性として注目を集めました。

『コールガール』と「Señorita」

 1970年代の1本のサスペンス映画が、第三世界に生まれた小説好きのひとりの子供にとって、将来性別を変えたり映画監督になったりするきっかけになる。そんなことはなかなか想像できないでしょう。でも私にとってはそうだったのです。

 それは私がフィリピンの大学で心理学の学士号を取得したときではなく、ビジネスを学ぶためにNYUの大学院に入学したときのことでもありませんでした。私はNYUスターン・スクールでMBAを取得しましたが、選択科目としてティッシュ・スクールで映画の講義を取り、夏期講習でカンヌ国際映画祭に参加しました。授業の合間にアンジェリカ・フィルム・センターやIFCセンターでアート映画をたくさん観ました。

 『去年、マリエンバートで』、『マリア・ブラウンの結婚』、ベルイマン、アルモドバル……。NYは米国のインディペンデント映画のメッカであり、私はそのエネルギーに酔いしれました。10代の頃映画のプロットやキャラクターを空想してはいましたが、その頃はまさか自分が映画製作の道に進むとは思っていませんでした。

 そんな私が2008年、26歳のときに出会ったのが、アラン・J・パクラ監督のネオ・ノワール映画『コールガール』(1971)です。私はジェーン・フォンダが演じたキャラクター、ブリー・ダニエルズに衝撃を受けました。

 冷徹な知性、性的魅力の自信、自分をひどく傷つけるような自己認識、自己主張、そして皮肉めいた脆弱性……。それは自己破壊と自己保存、混沌と秩序といったフロイト的な欲求の根源的な衝突であり、私はそのすべてに魅了されました。ブリーは自分でもコントロールできない内面的な矛盾を抱えた女性キャラクターとして、私のミューズとなりました。

 芸術とは無意識の欲求や解決されない個人的な葛藤が外に向かって表現されたものだと私は考えています。心理的に真っ二つに引き裂かれた女性が、いつの間にか私自身を象徴するアバターになっていたのです。

 ジェーンは『コールガール』で「Hooker with a heart of gold」(慈愛に満ち溢れる売春婦というテンプレ的キャラクター)の型を打ち破りました。1971年に公開されたこの映画は、私がよく見ていた1990~2000年代にフィリピンで流行った映画の女性描写に比べ、衝撃的なほどモダンで複雑な印象を与えました。

 ジェーンの演技力、パクラの演出力、撮影監督ゴードン・ウィリスのセクシーなレンズワークはキャラクターに生身の人間としての力を与えたのです。私はジェーンについて、彼女のキャリアについて、そして1960年代後半から70年代前半にかけての彼女の政治的活動について、さらに興味が湧きました。

 ブリーの自己認識の感覚は、アドリエンヌ・リッチによるオードリー・ロード(黒人レズビアンの詩人)のインタビューを思い出させました。オードリーは自分が詩を書く最も根源的な理由は、表現したいことが詩以外の方法では表現できず、また他の人の詩の中には存在しなかったからだと言っています。それが私にとっては映画という方法であり、「ブリー/ジェーン」でした。

 『コールガール』との出会いは私が描きたいと思っていたキャラクターの表現だけでなく、私自身がどのような女性になれるのかを考えた初めての経験であり、いつか自分の手で自分なりの「ブリー/ジェーン」を表現したいと思わせてくれました。

 同じ頃、私はあるYouTubeチャンネルの存在を知りました。そこではトランスの人々がホルモン補充療法(HRT)のさまざまな段階における変化を記録しており、人種、職業、性格なども多種多様でした。フィリピンのメディアを通して得た知識では、トランス女性の生き方は一つの道しかないように思えました。それとは対照的に、Youtubeの中の人たちは性別を表現する方法は一つではないことを教えてくれていました。

 私は女性になりたいというよりは、「より完全な自分」(more fully myself)になるために移行するのであり、それが私にとってはたまたま女性になることなのだと気づきました。私は自分で性別をデザインし、自分が創造した女性になることができるのです。それまではハロウィンの時くらいしか女性の衣装を着たことがありませんでしたが、この気づきは私が映画製作に足を踏み入れるために必要な後押しとなりました。

 私の長編第1作「Señorita」は、『コールガール』を1971年のNYから2008年のセブ島へと移行させた物語と言っていいでしょう。「Señorita」の主人公であるドナ(コールガールとしての名前はソフィア)は、ブリーとは異なりトランス女性です。

 「Señorita」は『コールガール』よりもノワール的で、はっきりと政治的です。セブ島で再選を目指す腐敗した市長が自分の顧客の取り巻きであることに気づき、対立候補に密かに情報を流すことにします。私は脚本と監督に加えてドナ/ソフィアを自ら演じました。

"異質性"の持つ力

 私は「異質」(Otherness)であることが自らの力の源泉だと考えていました。多くの人には理解できない難解な秘密を持つ人間というステータスにロマンを感じていたのかもしれません。これはある種の特権です。

 その一方で、私はアーティストとして真剣に受け止められたいと思っていました。「マイノリティの映画監督」として評価を手加減してもらいたくなかったのです。

 センチメンタリズムを利用することは多くの映画製作者が共感を得るために使う手段です。好感の持てるキャラクターや道徳的に正しいヒーローは、特に監督が「異質」と見なされている場合、観客が作品に共感しやすくなる効果があります。しかしそれは私にとっては妥協の産物のように思えました。人物を知ることはマトリョーシカをどこまでも開けていくようなもので、映画が終わるまでに主人公のすべてを理解できる保証はありませんし、その必要もありません。

 私の映画の女性キャラクターはそのせいで好みが分かれる傾向があるようです。彼女たちは愛や共感を求めているわけではありませんし、遠い存在に見えるかもしれません。彼女たちがまとう謎めいたオーラは感情的な弱さや身体的な危険から身を守る盾なのです。

 ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』の中で「浮気とは保証されていない性交の約束である」と書いています。『リンガ・フランカ』の製作中に感じた重要なことのひとつは、メッセージや感性にかかわらず映画とはエロティックな欲望を昇華させたものだということです。私たちは映画をセックスと同じように、緊張(コンフリクト)から解放(クライマックス)へのエスカレーションをどのくらい上手にできたかという点で評価します。

 明確で簡単な解決策がないということは、偏った見方をされることもあります。それは「Blue Ball」(勃起したのに射精できず睾丸がうずく状態)と言えるでしょう。しかし私は男性のオーガズムから女性のオーガズムへとギアをチェンジしただけです。

 『リンガ・フランカ』のクライマックスのシーンは感情的なカタルシスを満足させるようなものではありませんが、観客にある種の謎めいた「すべてを与えない」状態を維持することでさらなる期待を抱かせることができます。「Señorita」のドナや『リンガ・フランカ』の主人公オリビアは、映画が終わってもその軌跡は不確かなままであり、その後の運命は視聴者の心の中に残り続けるのです。

 現在執筆中の長編映画の脚本は、大学教育を受けた有色人種の移民2人が不況の中でギグ・エコノミーに頼るという現代の寓話です。労働者階級の経済的不安をストレートに表現するケン・ローチのような作品を目指しています。主人公の女性はトランスジェンダーですが、この問題はプロットポイントとしてほとんど出てきません。彼女はこれまでの私の映画のヒロインより気立てがよく、温厚で、ジェームズ・L・ブルックス映画のヒロインのようになるでしょう。トランス女性がEverywoman(誰もが共感できる一般的な女性主人公)として登場するのは純粋にラディカルな挑戦だと感じています。

 この主人公にどれだけ深くEveryoneの親近感を与えることができるか、それによって彼女がシス白人男性の多い世界で自己の世界観を具現化することができるか、とても興味があります。

 それは私にとって、自分自身の「異質性」を示すことから、「異質性」を規範に置き換えて「自分自身」とすることへの転換点です。さながらトニ・モリソンやジェイムズ・ボールドウィンが肌の色を超えて米国に普遍的な道徳の道しるべを作り出したように。

トランス・フェムの感性

 トランス・フェムの感性は異質なものでも一枚岩なものでもなく、まだ生まれたばかりの新しいものです。現時点ではまだトランスのキャラクターが登場する映画の圧倒的多数はシスジェンダーにより作られています。これらの映画の多くは、シスの製作者たちがかろうじて表面的に理解できる「ジェンダー移行のプロセス」を描くことで、変容するトランスの身体をエキゾチックでセンセーショナルなものとしています。

 トランスの映画製作者としての私の最優先事項はシスの解釈の修正です。そのために『リンガ・フランカ』ではジェンダー移行のプロセスではなく、移行後の生活に焦点を当てました。

 また、トランス女性の社会問題を取り上げようとすると「身体的な暴力」という教科書的なテーマが必ず出てきます。しかし『リンガ・フランカ』では肉体的な暴力は扱いませんでした。暴力はトランス女性だけでなく力の差があるすべての人間関係で現れるものです。オリビアと彼女に興味を持つシス男性アレックスとの間には、人種、性別、市民権の有無など、多くの力の差が存在します。

 トランス・フェムの感性に忠実であるためには、それが作品の中で嘘にならないよう気をつけることが重要です。つまりトランス・フェムの特異性を薄めたりリアルさを損なったりする圧力や利害関係を排除することです。

 ただもちろん、私は自分が何もないところで映画を作っているわけではないことはよく分かっています。映画製作はどうしてもお金がかかります。映画監督として持続可能なキャリアを築くためには一定の観客層に受け入れられて興行収入を挙げ続ける必要があります。プロジェクトの予算が多ければ多いほど商業的な魅力も大きくしなければいけません。

 『リンガ・フランカ』ではアートと商業の不安定なバランスを取ろうとしましたが、それにはなんとか成功したと思いたいです。世界の映画祭で批評家や観客が私の作家性を認識してくれましたし、ヴェネツィア国際映画祭、カイエ・デュ・シネマ、クライテリオン・コレクション、そしてエヴァ・デュヴァーネイが認めてくれました。

 ジャン・コクトーは「映画監督は同じ映画を何度も作るものだ」と言っています。人は必然的に同じテーマ、ジレンマ、葛藤に惹かれます。変わるのはスタイルだけです。これは私にも当てはまります。

 私が惹かれるのは秘密を抱えた女性です。彼女たちは秘密を抱えたまま困難な社会的・政治的環境の中で重要な選択をしなければなりません。秘密には力があります。他の人が持っていない知識を持っていることはそのまま権力の源泉となります。

 例えば第1作「Señorita」には2つの重要な秘密があります。ドナがコールガールのソフィアとして二重生活を送っていること、市長選で対立候補を当選させようと企んでいることです。第2作「Apparition」(トランスジェンダーのキャラクターは登場しない)では、マルコス政権下で隠遁生活を送っている修道女が密かに政治集会に参加します。

 『リンガ・フランカ』では、オリビアが不法移民であること、トランスであることをアレックスに隠しています。秘密が明かされた瞬間、その秘密による一過性の権力は消滅し、人種、ジェンダー、市民権の有無による名目上の力関係が復活し、アレックスに有利なものとなります。

 今後のキャリアで私が作るのはおそらくオリビアよりもドナのような物語でしょう。私は自分を、アイデア、スタイル、キャラクターについてさまざまなトリックを仕掛けるイリュージョニストだと考えています。私が今後企画しているプロジェクトは、よりトリッキーなスタイルのものか、要素を極力削ぎ落としたものかのどちらかであり、「イザベル・サンドバルらしさ」(Isabel-Sandoval-the-filmmaker)は流動的になっていくと思います。

 私は自分のある特定の側面によって定義されることを望んでいません。架空のキャラクターの創造や主体的なキャリアの選択は、トランス、フィリピン人、有色人種、女性としてカテゴライズされることに対する個人的な反発心から生まれたものです。

 今の私が追求しているのは、より広い範囲の観客を魅了し、感情移入してもらうことです。そのためにはジョーダン・ピールがポップカルチャーに政治的要素を盛り込んで成功を収めたように、より親しみやすく印象的な映画製作の文法と美的感覚を採用していくことです。私は「異質」な自分の視点を中心に据え、それを「本質」的なものとすることを目指しています。

© 2021 e-flux and the author


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?