若年性アルツハイマー型認知症の母と ギャンブル依存症の父を持った 私の生き方vol.1

窓から差し込む光に目を開けると、まどろみの中、部屋を出る。

母の部屋に行くと、すでに起きているようだ。

「おはよう」と声を掛けて、ゆっくり体を起こす。

にっこりとほほ笑む様子を見ると、どうやら今日もご機嫌のようだ。


両腕に体重を預けてもらい、ゆっくりと車椅子へ移動してもらう。

朝は母の足元がおぼつかないので、車椅子を使って移動する。

介護者も頑張りすぎず、安全に。

これは、介護士の資格を持つ私が身をもって感じている大切なことのひとつだ。

岩木あさ子(60)、私の母親であり若年性アルツハイマー型認知症を患っている。

朝ご飯を台所のテーブルに並べる。

母は、パンと牛乳をゆっくりと何口か食べて、私をまじまじと見る。そして再び、箸を延ばす。

これが僕と母の始まりのルーティーンだ。


私の名前は岩木寛人(33)、三重県名張市という小さな町で介護士と訪問美容師をしながら、母と暮らしている。

私はあくびをしながら、寝起きでぼさぼさの髪の毛を撫でた。毛先数センチは、2年前からずっと紫色だ。

これは、ただオシャレだけが理由で染めているわけではない。

母は昔から、紫色が好きだった。

認知症を患い、少しずつ周りのことが認識できなくなった頃、私は自分の髪の毛先を紫色に染めた。

母が紫色を見て、嬉しそうに笑う。それだけで、自分も楽しくなるのが嬉しい日々。この生活を始めて7年、私は今幸せだと断言できる。


思えば、母は深い愛情を持って私を育ててくれたと思う。

小学校3年生の頃に通っていた空手塾で、私は友達にいじめられたことがある。

それは初めこそいわゆる肩パンといわれる、肩を強くパンチするような些細な行動だった。

ただ、次第にエスカレートしていった行動は、体にあざを作るまでになった。

母とお風呂に入った時に見つかり、それが出来た理由を打ち明けた私。

内心、大きなもめ事になるのではないかと子供心にドキドキしたことを覚えている。

だが、母はいたって冷静に小学校に問い合わせ、そして相手の親と話し合いをしてくれたのだ。

決して騒ぎ立てはせず、しかし私の大切にしている居場所はきちんと守ってくれたことに、とても安心した。

今思えば、母のことを信頼できる人間だと認識する第一歩だったかもしれない。


一方、私といえば、そんな母の愛情に甘えすぎたといっても過言ではない。

好きなことをさせてくれて、あまり怒ることもない。端的に言うと母は子育てには甘かった。

クリスマスに欲しいものがあると、サンタクロースが二回来てくれることもあった 笑

母だけでなく、父や祖父母からも【怒られる】という経験をほとんどしなかった私は、その後ワガママに成長したと反省を拭えない。

それは、小学校の頃から片鱗があった。宿題をしなくても、勉強ができなくても問題がない。

成績をあげたら、お小遣いがもらえる。授業中に面白くなかったら、立ち歩いたり騒いだりすることは日常。

そんな私のために、母は何度も学校に呼び出された。それでも、母から怒られた記憶はほとんどない。

世間一般からすると、母は決して完璧な【しつけ】をしなかったかのかもしれない。


甘い、ということに関しては、だらしない、という言葉に置き換えることもできるだろう。

だが、私は幼いころ、まるで自分が世の中の主役であるかのように幸せで、そして楽しかったのだ。

そんな私が、行き過ぎた行動に走ったことも珍しくない。私の過去の罪をお話することで、ここから気分を害される方もいるかもしれない。それでも、どうか読み続けてくれたら幸いである。

まず、クラスメイトへの言葉について暴言を吐くことも珍しくなかった。バカ、アホ、きしょいなどの言葉は当たり前と化していた。

上級生の発する言葉をマネして、受け取った人間がどう感じるのか、その言葉は何を意味するのかなどを何も考えず、発していたのだと思う。

今、思うと無責任の一言だ。


中学校に入ると、その傾向は益々ひどくなった。部活は卓球部に入部したのだが、そこは偶然にも強豪校と呼ばれる学校だった。

それまでは自分が主役、一番と調子に乗っていた私は、ここで初めて周囲に自分よりも格上の人間がいることに気づいたのだ。

夢もなく、勉強が好きなわけでもない。自分のしょぼさに気づいた私が、道を踏み外していくのに時間はかからなかった。

高校生になると、さらに行動に拍車がかかった。外枠だけで話すと、器物破損や不法侵入もした。進学した高校はいわゆるヤンキーが多いところで、周りもお互いを促すように悪さに走っていた。

警察に捕まったこともあるし、ばれなかった悪行もある。捕まった時は、祖父や母が迎えに来てくれたり、家庭裁判所まで行ったりしたこともある。

私も悪いことをしている自覚はあった。こんなことをして、一緒に謝ってくれる母に申し訳ないという気持ちもあった。

それなのに、その一言がどうしても口から出ない。それは、自分が悪いことをしたと認めるとダサい気もしたし、ほとんど謝ったことがない私は恥ずかしさも覚えていた。つまり子供だったのだ。

こんな悪行を続ける私だったが、意外にも家族は堅い職に就いていた。祖父は地元の消防局長まで務め、祖母は市役所に勤務をしていたが役職もあった。祖父に至っては、天皇から受理される紫綬褒章まで受賞し、地元でも名のある人だったという。

当時はそれが、どういう意味だったのかは理解しようともしなかったし興味もなかった。


私の転機となったのは、高2の春休みだった。そろそろ進路も考えなければならない時、介護士をしている叔母に相談してみた。

進路をあまり選ばなければ、地元の工場に就職して淡々と日々を送ることは目に見えていた。それが悪いわけではない。だが、当時の私にとっては、「何か」を見つけたかった。

そんな時、ダイレクトに人の役に立てる仕事をしている叔母の姿を見て、そして手に職をつけることができることも魅力で、私は介護の道を視野に入れるようになった。

しかし一方で、ファッションにも興味があった。ファッションか福祉か、どちらの道に進むか迷っている私の背中を押してくれたのは母だった。「どっちもやればいいんじゃない?」、そんな母の言葉は、私にとって大きな後ろ盾となったのだ。

高二の夏に母の知り合いの美容室に二日間だけ体験で働かせてもらうことがあり、ファッション業界のことについて教えてもらった。

しかし、自分の目に映ったのは煌びやかな美容師さんが輝く美容室にとても感動を受けた。

その時に、美容師がカッコイイ!やってみたい!と急な方向転換をしたのである。

もちろん、母は喜んで背中を押してくれた。頑張りなさい。その言葉が嬉しかったことを覚えている。


めでたく高校を卒業した私は、京都の美容専門学校へ進学した。

地元から離れて、京都で一人暮らしをすることになったのはいいが、実家を出るのは初めて。

一カ月ほどでホームシックになってしまった 笑

今までは、料理や洗濯など黙っていても誰かがやってくれていた。

自分が着たいものを選ぶのも、食べたいものを欲しがることも簡単だった。

それが、自分で動かなければ何も手に入らない現実を突きつけられる。今までのことを母に感謝した瞬間だった。

ただ、一人暮らしを始めたといっても、母との関係性はあまり変わらなかった。

元々、京都でバスガイドをしていた母とは、二カ月に一回のペースで食事に行くのが慣習化していた。

今の若者には多いと思うけれど、私もその一人で、母と買い物や食事に出かけることに何の抵抗もなかった人種だ。

それに、実家からは定期的に段ボール一杯の食料が届くなど、一人暮らしに慣れてからは、寂しさを感じることはなかったと思う。


そして、晴れて就職したのは東京の美容室だった。

本当なら、専門学校の段階で東京に進学したかったのだが、それは家族に止められていた。

家で散々に甘やかされて育ってきたからだろう、家族はいきなり東京に行くのは、さすがに心配だったのだろう。

二年間、一人暮らしをした後押しだろうか、東京への就職に反対はなかった。


実際、東京に行ってからは大変だった。そもそも、美容師になりたいというのもただの美容師ではない。

もちろん、目指すは『カリスマ』だ。カッコいい!一流!を求めて就職したのはいいが、現実は厳しかった。

休憩時間もほとんどないほどの激務。立ち仕事で、先輩のサポートをするばかりで実際にお客様の髪を触ることなど程遠い。

その先輩たちを見ても、夢は音を立てて揺らいでいく。退職して転職する先輩は本当に多いし、もし独立してお店を出しても潰れてしまう光景をたくさん見た。

30代、40代と先を見るほどに、不安がつきまとった。根性がなかったといえばそれまでかもしれない。でも、私は将来を考えた上で、美容師として成長していくことは諦めたのだ。

カリスマなど、一握りしか存在しない。


でも、美容室で働いて楽しかったこともある。私の性格はフレンドリーで、誰かと話す時に緊張することはない。

記憶力もいい方だ。だから、カルテを細かく見なくても、お客様と話した内容をよく覚えていることができた。おかげで、お客様から離すのが楽しみだと言ってもらえる機会もあって、自分を肯定できる瞬間でもあった。

あと、この本は母との出来事を書くことが目的だから詳細を書くつもりはないけれど、美容師を辞めた理由はもう一つある。

私は一度、結婚していた時期がある。地元の同級生と数年間という短い期間だったけれど、色々と根性のない私が、『普通の幸せを掴みたい』と踏み込んだ領域だった。

色々あって、結果ダメになったけれど、一家の主としてきちんと収入を得るために美容関係の会社に転職したいと考えたことも、理由の一つではある。

今、振り返ると逃げる言い訳だったのかもしれないが、その時はその行動が精一杯だった。

過去のことを振り返ればキリがない。いつだって過去は未熟なのだから。


東京で仕事と家庭に奮闘しているころ、母に少しずつ変化が訪れていた。認知症である。

家族が少しずつ、壊れていく。その始まりは、父の作った借金が原因だろう。

私も就職し、六歳下の弟はいるものの、子どもにかかる出費が減り少し余裕がでた。出来心で手を出したギャンブルにのめりこみ、気づいたら1千万を超える借金を作っていたのだ。

市役所を退職後、書道教室をやるなど凛とした佇まいだった祖母が精神を病み、だんだん引きこもっていく。食事以外は自室から出てこず、社交的だった祖母の姿は消えた。

それだけ、息子の借金がショックだったのだと思う。母親から電話やメールで話を聞いていたものの、遠くにいる私にも、少しずつ辻褄が合わないと違和感を覚えることが増えていった。

症状が進み、心配になり、母を促して病院に連れて行った時、認知症の診断を受けた。私にとって、地元に戻ることに対して迷いはなかった。

友達が多くて、いつでも明るく人を引き付ける母。学校のPTAをやれば、先生たちとカラオケに行くほど親しくなっていた。

掃除や片付けが苦手だったけれど、ご飯を作るのは上手だった。カレーやハンバーグにかくし味をしたり、お弁当のおにぎりを変わった味にしたり。何かに挑戦して、人が喜ぶところを見るのが好き。

そんな母に、私は絶対的な安心感をもっていたのである。そんな母のSOSに、自分はどう答えたら良いのだろうか。

今でも正解を出すことはきっとできないだろう。これからもきっと迷いながら生きていくだろう。


今でも、色々と考え事をしたい時はある。人生について、迷う時だってある。そんな時に行くのは、家の近く5分ほどのところにある川の土手だ。

高校生の頃、自律神経の調子を崩した時があった。何かの本で、自律神経を整えるためには、火や水など形のないものに触れると落ち着くと知った。

火を簡単に使うわけにもいかないので、たどり着いたのがこの川だったのだ。小学生の頃から慣れ親しんだ川は、私にとっていつのまにか居心地のいい場所になっていた。

小さい頃は、何も考えずに自分の未来はずっと幸せだと思っていた。そして、自分の家が誰よりもイイ場所だと思い込んでいた。

ある意味、それでよかったのだと思う。でも、大人になって気づいたのは、幸せは自分で作っていく必要があるということだ。

黙っていて、誰かに与えられるものでも、簡単に手に入るものでもない。でも、私は今、その幸せをきちんと手にしていると思う。

この本は、私の今の幸せを作るために奮闘した軌跡の記録である。また、今どこかでご家族が認知症になって悩み、苦しむ方がいたら、この本で元気を出してくれたら嬉しいと思う。

希望になれる生き方を見せることができれば幸いだ。

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