「表現の自由」について語りたくなったときのための覚え書き

概略 

 この文章は、ツイッターのいわゆる「表現の自由」をめぐる論争の助けになるために書かれています。同じような話題を何度も繰り返しているようで不毛だからです。不毛さの理由を私は2つ考えています。1つは「公共」という言葉です。もうひとつは「性的」という言葉です。これらの言葉を使わずに表現の妥当性を考えるために表現について3つの観点を用意します。それぞれ「誰が」「誰に」「何のために」です。これらの視点で考えることで曖昧さの少ない議論ができると考えます。以下はそれぞれについての解説です。

「公共」の曖昧さと規範性

 「公共」という言葉は議論においてあまり使わない方がよいのではないかと思います。その理由は意味の曖昧さとこの言葉が与える強い規範意識です。順に説明します。

 まず公共の曖昧さです。私がなぜこの言葉を曖昧と考えるかというと、人々の個人意識が強く公共を想像することが困難だからです。理由は2つあります。1つは平等を目的としてジェンダーや人種的多様性など個人の違いが重視されることです。それぞれが異なっていることを前提に、あなたはあなた、私は私と相互無関心が意識の基本姿勢になっているのです。もう1つは個人ごとの人生の目的の違いです。言うまでもなく個人の自由は重視されています。それぞれが自由に個人の人生の意味を生きている世界では、皆がひとつになって何かを成し遂げる空間のことは想像しにくくなります。以上、私が公共という言葉が曖昧であり使わない方がよいと考える理由を述べました。

 「公共」の規範性についても少し述べます。上で書いたように今の社会は個人が自由に自分の人生を達成しようとするところです。そのような社会では当然制約は嫌われます。「公共」とは制約の最たるものです。この言葉がマジックワード的に個人をの自由を制約することになることは良くありません。また、この言葉を使用する人間から権力的な匂いがして反発を生むことにもなります。以上「公共」の規範性について述べました。

「性的」の曖昧さ

 「公共」に加え「性的」という言葉も使わない方がよいと思います。事実の曖昧さと価値の曖昧さの2つを見ます。

 まずは事実の曖昧さについてです。最大の問題点は曖昧さを理由にいくらでも定義をずらすことができることです。理由として、個人それぞれ何が性的と考えるかは異なることが挙げられます。何が性的かについて肌がどれだけ見えているかや身体のかたちがどれだけはっきり見えるかなどの基準を決めるのはおそらく不可能です。

 価値の曖昧さもあります。人間が何かを性的と考えるとき、それは好いことなのか悪いことなのかということが議論に入り込んでしまうと議論がややこしくなってしまいます。人間の性規範がどうあるべきかなども同じです。自由や自己決定が基本の世界で価値について争うのはかなり不毛です。

 以上、「公共」「性的」という言葉を議論に使うときに起こる問題を見ました。

表現には「誰が」「誰に」「何のために」がある

 上で曖昧な言葉を使うことが議論の不毛さのもとだと示唆しました。それらの代わりに用いるべき言葉として「誰が」「誰に」「何のために」を提案します。

 まず「誰が」についてです。何が表現があるならば、それを行った人が必ずいます。なので、まずそれが誰かということをはっきりさせます。

 次に「誰に」です。表現には当然見せたい相手がいます。それは他人とは限らず、自分であることもあります。これも表現に欠かせない要素として考慮に入れます。

 最後に「何のために」です。表現には何かの意図があります。誰かの目を喜ばせるためであったり、献血を促進するためのものであったりします。この「目的」と「誰に」を使って「表現」について考えようというものが本文全体を通しての主張です。

検討の例

 具体例を少し考えてこの文章を終わります。

 素材は宇崎ちゃん騒動について。「誰が」は日本赤十字社であり、「何のために」は献血の促進のためです。「誰に」はおそらく、ポスターを見ることが可能な全員でしょう。あのイラストはオタクと言われる存在、とくに男性に強い訴求力を持つものと考えられます。逆に言うと、それ以外の方には訴求力が薄く、むしろ嫌悪すら生むものでもあり得たのです。なので、“広く献血を求める”という目的の達成のためには、もっと中性的であったり、訴求力の対象の広い表現である必要があった、とは言えます。オタクだけに献血を求めているのなら、問題は特になかったでしょう。注意したいのは、ここに表現物への倫理的非難が含まれないことです。目的達成の手段として最前の表現かどうかを検討しただけで、宇崎ちゃんのイラストが世界に存在していいのかそれとも悪いのかという議論はしていないのです。そんなことはしてもしなくてもよいことです。宇崎ちゃんが性的かどうかも重大事と考えていません。目的を達成する主張としてふさわしいかどうかだけを問題にすることができるのです。「何のために」と「誰に対して」の不調和を生んだのだという事実だけを問題にして改善点を探るのが1番よいと考えます。

 加えると、表現について規制を加えるような強くて大きい権力を規制派が持つことは難しいことは覚えておく必要があるとは考えます。浦を返すと、権力によって表現物が規制されている場面は性についていうならモザイクや黒塗りや健全図書云々であって、そこは履き違えないようにしたいものです。

 以上で終わりとさせていただきます。意見、コメントなどあれば残していって下さい。それこそ自由ですのて。

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