2月15日はシンガポールを占領した日

82年前の今日(1942年2月15日)は、日本軍がイギリス軍の拠点だったシンガポールを占領した日である。

日本軍は市内に検問所を設け、中国国民党の支援者とみなした中国系住民、いわゆる「華僑」の人びとを虐殺した。

写真:シンガポール陥落の写真(日本政府刊行の写真雑誌『写真週報』一九四二年三月四日付の表紙)

図版:シンガポールを占領した当時の日本軍の組織図

地図:処刑場所と検証地点


以下、『シンガポール華僑粛清』林博史著

http://www.koubunken.co.jp/book/b201864.html

94~95頁から引用

《引用開始》

 大西隊の一員として検証にあたった中山三男憲兵曹長は戦後、インタビューに答えて、「ただ人相、服装を見て、ああこれはインテリ、これはどうもというような区別に陥りやすかったように思いますが、それだけで本当に抗日意識の旺盛なインテリかというようなことはわからんと思うんです」。「とにかく服装でこれはインテリだ、インテリ階級はみな抗日意識旺盛なんだというように聞かされていたわけですね。それで、自分ら本当の命令だったかどうか知らんですが、シンガポールの華僑が八五万か九〇万くらい現在おる、蒋介石が現在までに抗戦を続けてきておるのは南方の資金援助のおかげだ、それだから半分くらいは粛清せないかんのだ、というようなデマが頭に入っておる関係で、とにかくインテリのやつを人相と服装だけでパッパッとやっとるからね」。「まあこぎれいなかっこうをしておるとか、服装をピシッとしているとか、そういうことに陥ったように思うのですが(中略)大多数はとにかく服装で見てる」。「その当時半分粛清するんだということを自分らも聞いたですから、半分もやるならちょっとくさい者もというわけで、そんな分け方をしたように思います。それにあれだけの短い期間では取り調べはできんですわ」(東京大学教養学部国際関係論研究室『インタビュー記録D日本の軍政2』二~三頁)と語っている。

 検証の最中の二一日、この検問所にやってきた軍参謀辻政信中佐が、「容疑者を何名選別したか」と聞いたので、大西が「只今のところ七十名であります」と答えると、「なにをぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」と大声で叱咤したという。

《引用終了》

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