澁川春海の尊皇思想

澁川春海という人物
澁川春海(しぶかわ・はるみ または しゅんかい)は、江戸時代の天文学者として著名な人物である。また、近年では冲方丁『天地明察』の主人公としても有名であろう。日本で最初に地球儀を作った人物としても知られている。囲碁棋士としての側面も知られており、多岐にわたる活躍をした人物である。澁川春海の天文学者としての実績はこれまでも数多く研究されてきたし、『天地明察』のヒットにより、改めて研究が進んだと言える。だが、澁川春海は山崎闇斎から垂加神道を学んだ人間であり、尊皇思想家でもあったのだが、その一面はほとんど忘れ去られているといってよい。後述するように、春海は「尊皇思想かであって天文学者でもあった」というような人物ではなく、「尊皇思想家であり、祖の尊皇思想の表れとして天文学を学んだ」人物であった。即ち春海の尊皇思想の面に触れないことは研究として片手落ちと言わざるを得ない。本稿ではそうした澁川春海の尊皇家としての一面を紹介したい。
皇紀二二九九年(寛永十六年)、澁川春海は江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。山崎闇斎のもとで学び、父の死とともに「安井算哲」の名を継ぐが、年少のため安井家は継ぐことができなかった。二三一九年、二十一歳の時幕府から初めて禄を受けるが、その年にはもうシナで元の時代に作られた授時暦の改暦を願い出ている。その時は、春海の改暦願いは受理されなかったが、春海はシナの暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張し、国産の暦の作製に尽力した。ついに三度目の上表によって春海の暦が朝廷により採用されて、貞享暦となった。これが日本初の国産暦であった。この功により、二三四五年(貞享元年)に初代幕府天文方に任ぜられた。二三六二年(元禄十五年)からは安井家の本姓である澁川を名乗るようになる。澁川家の家系は清和源氏に連なるものであるという。

暦を作るということ
ところで暦というと、現代人はカレンダーのような実用的なものと思ってしまうが、実用性だけではなく、暦を採用するのは天子の専権事項であった。江戸幕府の圧迫下に置かれていた当時の朝廷においてすら、それは例外ではなかった。即ち春海は幕府の天文方として録を食むも、天子の専権である暦の採用をわが国風に基づいたものにすることに成功したのである。
余談ながら島崎藤村の小説『夜明け前』において、主人公青山半蔵は明治政府の太陽暦の採用に対抗して皇国暦の建白書をしたためるのだが、これも暦というものが単なる実用品を超えた存在であることを念頭に置いての行動である。
そもそも「天文」とは、今日の天文学とは異なり、天変を天子の失政に対する天からの警告と考え、その警告を正確に読み取る仕事のことである。天文学者は飢饉や洪水などの天災は無論、反乱などの人災をも占うことも行っていた。春海の時代にはもうそういった側面は多少薄れているものの、依然そうした考えは残っており、例えば春海の著『天文瓊統』においても、「およそ月と五星と宿を合して食するは、歳星と食すれば、穀貴く、農官憂ふ」とあるように、天文の動きに基づく様々な場合によって何が起こるかを記している。こうした学問は当時において一定の実用性も持ち合わせていた。例えば土御門泰福は春海や谷秦山と親交を持ち、学ぶことで暦の裁許権や、全国の陰陽師支配を手中に収めることに成功している。暦学の知識は朝儀にも役立つものであった。
天子とは天地を総攬する存在であり、天を司るとは暦を定めるということであり、地を司るとは土地制度を定めるということである。したがって、古来政治においては暦の策定と土地制度は、単なる実用的な政策以上の意味合いを持つことになったのである。時代は変わるが、この土地制度に注目して大化改新を再評価するなどの自らの論を組み立てた人物に五・一五事件の理論的指導者である権藤成卿がいる。権藤の政治思想については本稿では詳述しないが、権藤成卿も春海と同じく崎門の思想的流れを受け継ぐ人物であった。
春海は囲碁を打つ時も天文の法則をあてはめて、北極星を中心に天体が運行する発想から、初手は必ず碁盤の中央、天元に打ったという。ところで北極星、即ち北辰も、『論語』に「子曰わく、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て、衆星のこれに共するがごとし」(金谷治訳注)とあるように、天子のもたらす理想の統治を示すものであった。即ち、春海にとっては暦も囲碁も、天子を中心とした「あるべき秩序」を立証していく存在に他ならなかったのである。

崎門と澁川春海
既に述べた通り、春海は山崎闇斎から垂加神道を学んだ人物である。闇斎は春海を「天下之逸才。千歳之一人」と激賞している。先にも紹介した『天文瓊統』において春海は、周の文王と伯夷・淑斉について述べている。
文王については殷の紂王に監禁されても臣たる道を失わず、君に仕えたことを称賛している。無論、これは山崎闇斎が「拘幽操」に詠まれた文王の絶対的な殉忠を称賛し、湯武放伐を否定したことに由来している。
また、文王の子武王が、紂王を討伐することを諌めて疎まれ、それでも忠を貫きついに餓死した伯夷・淑斉についても絶賛しており、彼らには「神道之気象」があるとした。これは放伐を是認していた林羅山らとの認識とは対極的である。浅見絅斎が、支那のように革命が行われてしまった国には純粋な意味での正統は存在せず、わが国の歴史にのみ純正な正統があると考えたことと思いを一にしている。春海の根本精神は崎門の学にあり、天文学や囲碁は崎門の精神を世に示す手段であった。
春海は垂加神道を根底としながら、一家の学風をなしている。西内雅は『渋川春海の研究』で、それを「土守神道」と呼んでいる。それは「垂加」が山崎闇斎の霊社号であったのと同じく、春海の霊社号が「土守」であるためである。春海は、師の闇斎に対してすら「垂加之葬亦習合儒佛。可恨萬萬也」と考えていたようである。正しいと信じた弁別の前ではたとえ師といえども遠慮することがなかったようである。ただし春海は必ずしも頑迷固陋な人間ではなかったようで、闇斎の教えを根本としつつ、垂加神道の他にも伊勢神道や吉田神道、吉川神道なども学び、師の説を発展集大成しようと考えていたようだ。
なお、春海は非常に質素な暮らしを心掛けていたようで、谷秦山が初めて春海を訪ねたとき、非常に質素な身なりであることに驚いている。

皇紀のはじまり
神武天皇の即位した年を元年とする皇紀は、明治五年の太政官布告を以て定められた。西暦でいう紀元前六六〇年を皇紀元年とする算定は、この時初めて公式化された。しかし皇紀は明治維新政府が日本書紀の記述を基にこの時突如定めたものではない。その前の江戸時代からの議論の積み上げがあったうえでの公式化であった。
その西暦でいう紀元前六六〇年を皇紀元年とする算定を暦として初めて行った人物こそ、澁川春海に他ならない。『日本長暦』において春海は、わが国の施行された全ての暦を参照し、神武天皇即位紀元まで遡り暦法を作成した。春海は垂加神道の説に従って、古暦復元と貞享暦編纂の意義を説いたのである。後に本居宣長は『真暦考』で、古来の日本にそのような日時の意識は無かったと批判しているが、おそらく春海にとってそのようなことは大した問題ではなかったであろう。北辰(=天皇)を中心として天体が運行し、その秩序を以て時が定まることを立証することが目的であったに違いないからである。
もちろん春海は皇室の起こりから暦を定めただけでなく、その暦の作製に当たっては天体の実測を非常に重んじた。それまでは支那の暦をそのまま採用していたが、ずれがあった。春海の暦はそうしたずれをも修正するものとなっていたのである。
春海の『日本長暦』に刺激され、様々な人物が『日本長暦』を補完、訂正し、日本古来の暦を充実させていった。藤田幽谷は、『暦考』の中で日本の最初の暦の頒布を、推古天皇十二年の元嘉暦(当時百済で採用されていた暦)導入とする説を唱えた。
貞享暦採用の後、春海は江戸に移り天文暦学、神道、有職等の講義をして過ごしたという。これは浅見絅斎が自らを天皇の臣であって幕府の臣ではないと固く誓い、関東の地を踏まなかった態度とは異なっている。西内雅は、こうした春海の態度を「痛烈なる批判を受けねばならぬ」と評しているが、絅斎とは違い、幕府に仕える家の者として生まれた春海の事情も理解すべきであるとしている。西内は、春海が幕府幕臣を真に臣たる務めを果たすよう感化させるべく江戸行きを決断したと推定している。

春海の学問と水戸学との関係
春海と最も長く付き合った弟子に谷秦山(重遠)がいる。秦山は山崎闇斎の最晩年の弟子であったが、闇斎の死後、兄弟子である絅斎や春海に入門し、学問を深めた。西南戦争で熊本城に籠り西郷軍とたたかった谷干城は秦山の子孫であり、秦山の学を復刻させるべく尽力した人物である。
春海は秦山に手紙で学問的指導を行うことも多かったが、その時自らを「都翁(つつじ)」と称していた。これは「江戸で京都のことばかり話しているので都の翁と呼ばれている」ことが由来だという。谷川士清は『日本書紀通証』を著す際に、谷秦山の書を多く引用しているが、秦山に記紀を教えた人物こそ澁川春海である。秦山は春海に手紙で学問的指導を受けていたが、その中では記紀のことも多く論じられていたのである。秦山は春海に教わった記紀の学問をさらに発展させた人物であった。
『春海先生実記』には、春海の神道や兵学の高弟に保科正之や水戸光圀の名前も記されている。春海は天文学、暦学だけでなく神道や兵学にも深く精通していたことが分かる。その水戸光圀の文献調査係を務め、「格さん」のモデルとなった人物に安積覚という人物がいるが、この安積の跋文がついて出版された崎門学の本に栗山潜鋒『保健大記』がある。谷秦山は『保健大記』を、「是ホド珍重ナコトハナイ」と絶賛し、『保健大記打聞』という講義録を残しているが、その中では、神道こそ真剣に研究されなければならないこととしたうえで、神道を主とし、しっかりとした思想があるならば、外国の学問(=儒教、仏教)を補助的に学ぶことも良いとしており、「和魂漢才」「和魂洋才」のはしりとも言うべき思想を打ち出している。これは谷の思想ではあるが、その師である春海の思想も大きく影響を与えているだろう。
ちなみに『保健大記』を著した栗山潜鋒は『神皇正統記』を書写し、その著者北畠親房に傾倒し、親房の至誠に無限の感動を覚えたという。その栗山潜鋒から深い思想的影響を受けたのが、藤田幽谷である。先にも述べたように、幽谷は春海の業績を参照し、日本の暦の歴史の研究に踏み込んだ人物でもある。

おわりに
既に本文中にも述べた通り、澁川春海の事跡を想うに、天子を中心としたあるべき秩序を立証すべく奔走したと考えられる。春海にそのような強い尊皇思想をもたらしたのは、山崎闇斎の垂加神道と考えてよいであろう。
なお、本論文はその多くを西内雅の『澁川春海の研究』(二六〇〇年刊行)に依っているが、西内は、一時期マルクス主義やアナーキズムに傾倒していたものの、澁川春海の弟子である谷秦山の勤皇思想に触れたことで開眼し、平泉澄が開いた青々塾の門下生となった人物である。本稿は筆者の力不足により、春海の尊皇思想に関する研究を西内の論考以上に深めるには至っていないが、現代社会において改めて春海の思想に対する関心が向くきっかけとなれば幸いである。

◆参考文献
 ◎澁川春海に関するもの
  西内雅『澁川春海の研究』(二六〇〇年、至文堂)
  志水義夫『澁川春海と谷重遠―双星煌論―』(二六七五年、新典社)
 ◎崎門学全般に関するもの
  小林健三『垂加神道の研究』(二六〇〇年、至文堂)
  磯前順一・小倉慈司編『近世朝廷と垂加神道』(二六六五年、ぺりかん社)
  松本丘『垂加神道の人々と日本書紀』(二六六八年、弘文堂)
  坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学』(二六七六年、展転社)


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