陸羯南のアジア認識―『国際論』を中心として―

陸羯南という人物

陸羯南(くが・かつなん 安政四年~明治四十年)は明治期に活躍した新聞記者である。陸は弘前出身で、明治二十一年に『東京電報』という新聞の主筆兼社長に就任。翌年二月十一日に『日本』と改題し、舌鋒鋭い言論活動を繰り広げた。陸は主筆として主に社説を担当し、当時は徳富蘇峰らと並び称される、福沢諭吉の次の世代を担う人物であった。
陸は一級の新聞記者であったが、その政論は政府や政党の動向にとどまらず、歴史や社会、経済などと絡めて政治を見るところに特色があった。その見方は国際政治にまで及び、それが他の政論記者の追随を許さないとまで言われるほど彼の風評を高めた。
同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀は陸羯南を評し、「古処士の風あり」とし彼の政治思想は中国儒教の基礎の上にドイツの国家主義を据えたものと考える。「ゆえに彼の大臣責任論はあたかも支那の諫議大夫の弾劾に彷彿たり。…彼は貴族と平民を調和せんとし、行政的知識を以て勝る」とも評されている。陸が主に活躍した明治二十年代から三十年代は、明治初期の欧化主義の風潮への反発が条約改正問題を契機に高まったころである。陸はこの時代の対外硬運動の理論的支柱となった。三宅雪嶺、志賀重昂、杉浦重剛などとともに「国粋主義」と呼ばれることがある。
陸は、政党などの機関紙として存在する「機関新聞」でもなく、営利のみを目的とする「営業新聞」でもなく、日本にとってあるべき姿を論じる「独立新聞」を目指した。『日本』は漢文読み下し調の硬派な新聞であり、右派知的階級に読者層を持っていたと言われる。『日本』は最も対外的に強硬な論調を張ったが、また最も政府に発行禁止の憂き目にあわされた新聞でもある。二十二回、百三十一日間の発行停止は群を抜いている。陸は熱烈な愛国者であったがそれは政府との妥協を意味しなかった。陸の国民主義その他の主張は決して政府にとって都合のよいものとは限らなかった。陸は尊崇すべき皇室、守るべき国土や国民と政治指導者を明確に分けて考えており、皇室、国土、国民等は擁護したが藩閥政府の指導者は主に批判の対象であった。民権期に勃興した政党に対しても辛辣な評価が多く、彼らが国民の民意も掬わず既得権に居座っていると批判したこともあった。


陸羯南「国際論」の内容

そんな陸が明治二十六年に著したのが「国際論」である。「国際論」とは、国家同士の侵略、被侵略がどのようにして起こるかを示したものだ。陸は、日本の国家目的を欧米の侵略を止めさせることに置いた。陸の国際認識は「国際論」に言い尽くされている。陸は言論、学術状況において日本があまりに西洋に依存した状態にあり、自己の政治思想を練り上げる際にまず西洋の思想を参照するという本末転倒の事態に陥っていることを憂いている。「国際論」で重要なのは、国際競争は決して軍事力や経済力だけではなく、国民精神や国の使命を基に考えないと属国化されてしまうことと、欧米偏重の世界観を正すことこそが日本の使命だということである。
陸は世界史を力による侵略、非侵略の歴史と見做し、侵略がどのようにして行われるかを詳細に論じた。それによれば、侵略は外国に対し憧れのような感情を持たせることから始まり、次に経済的に依存させ、最後には領土を奪うのだという。陸は国を守るには軍事力と経済力だけでは駄目だという。もし輸出入の増加、人口の増加などを以て国の発展だと言うならば、欧米列強の傘下に入ってしまえば日本の繁栄は成し遂げられるだろう。だがそれではいけない。国際競争は軍事力や経済力の競争ではなく、国民精神の競争なのだ。人に使命があるように、国にも使命がある。国の盛衰は国民全員が国の使命を理解するか否かにかかっている。古今東西の歴史を鑑みれば、国の使命と言える思想がその国の元気を左右するのは議論の余地がないではないか。
「欧州以外に真文化なく、白皙人種以外に 真人種なし。故に欧洲の属地にあらず、白皙人種の住所にあらざる国は彼等の視て劣等と為す所、劣等の国及人は彼等視て文明の妨害と為し、一日も其の破滅を速やかにせんと努むる所のものなり。彼等が此の理想を挾むは善し。何となれば彼等は一種の『国命』を此点に繋げばなり。然りと雖も、もし彼らの視て劣等国人となすところのもの、(中略)少なくとも長短を較して彼等に対抗し、其の『劣等』といへる無礼的称呼を甘受せざるは我れの義務にあらずや」。欧米列強に「劣等」と名指しされた日本やアジアはその無礼的呼称を甘受してはならないと述べた。
「さらに転じて世界文化の消長に見よ、人 道の上よりすれば何人も何国もみな世界文化に賛助するの義務ありと言わざるべからず。ひとり一方の国人のみにこの義務ありて、他の国人はただ牛馬とせらるるがために存すとなさば世界の文化はつねに一様なるに止まりて進歩の運に向かうべからず。西洋の文化を存して東洋の文化を滅し、たとえ滅せざるもこれを発達せしめざるはこれ世界の文化に一要素を減ずるに均しきなり。東洋に国するもの、例えば日本国の如きは、世界文化の為にも其「国命」を重んずるの任務あり。如何にして此任務を竭さんと欲するか。欧人の文化を取るも自国の文化を棄つる勿れ。欧人と親交するも自国人を屈辱する勿れ」。東洋は自らの文化を維持し、発達させていくことこそが世界文化の進歩に貢献するのだと主張したのである。
さらに日本の「国命」は「六合を兼ね八紘を掩う」にあるとして、「王道」を世界に述べることこそ日本がなすべきことであるとした。陸は「八紘為宇」を「自ら率先して世界の公道を明らかにせんこと、これ日本帝国の錫命にして祖宗の遠猷に合するものなり」という。陸にとっての「世界の公道」とは「各国対等」であるが、優劣・国の存廃などは「国民精神」の強弱で決まる、という国際政治観であった。
更に陸の批判は「国際法」「国際例」にまで至る。「今の国際法なるものは大半みな欧の諸国を偏庇するに出づ、否、ひとり欧の諸国のみが参与して立てたるの法にすぎざるなり。欧人が国際上において自ら特権を構成し一種の族制を世界に造りたるなり。東洋に国するものは自ら甘んじて斬り捨て御免の下に立つべきか、もしくは自ら率先してこの閥族制を撤去することに努むべきか、もしくは国際法の恵を享受せんために欧化を図るべきか、三策のうち必ずその一を取らん。切り捨て御免を甘んずるはアフリカ及び南洋東洋の諸属邦を然りとす。今後の計をなすべき独立国は国際革命の首唱をなすか欧州帰化の用意をなすかの二途に外ならじ」。国際法自体が欧州の先例により欧州に有利なようにできており、解釈されている。それに不服を唱える「国際革命」の主唱者となるべきだと主張している。「国際革命」とは重い言葉である。陸は「吾輩は国際公法なるものを正理公道に基づけんことを希望するなり」と述べている。
陸は国際法が欧米の侵略を合法的に正当化する様を鋭く見抜き、それを「正理公道」に基づいていないと批判し、根本的に改めることを主張した。具体的には東洋における外交上の先例も踏まえた「国際法」にすべきだと主張している。不平等条約という、西洋国際法においては合法的な手続きを踏んで行われた侵略に苦しめられた明治人だからこその切実な問題意識であった。


まとめ

陸はあくまで一人の日本人として思考し、主張した。陸は国際政治における侵略、被侵略の動向を分析したが、それはあくまで日本社会に警鐘を鳴らすためであり、傍観者として論じたものではなく、当事者として日本はどうすべきか、世界はどうあるべきかということが念頭にあったうえで説かれたものであった。本論では割愛してしまったが、陸は軍事的、経済的側面に限らず様々な側面においても侵略、被侵略の関係を検討している。
それはコレラなど病気の流入から移民の問題、国際的な婚姻関係にまで及んだ。陸は当事者が侵略を意図していなかろうとも侵略的行為は発生するものであり、それに備える必要性を説いた。陸は「国政の本義は他なし。内においては国の統一、外に対しては国の特立、かくのごときのみ」という。内政においては国民が一致団結し、外交においては自立した外交姿勢を目指した。それを実現するために、日本人は自らの使命を自覚し国際政治に臨むべきであると考えていたのである。

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