陸羯南の国家的社会主義

陸羯南と社会問題

明治二十年代、鹿鳴館外交に代表される欧化主義を批判した政論家がいた。陸羯南(くが・かつなん)である。陸は弘前出身で、明治二十一年に『東京電報』という新聞の主筆兼社長に就任。翌年二月十一日に『日本』と改題し、舌鋒鋭い言論活動を繰り広げた。陸は主筆として主に社説を担当した。大隈重信の条約改正論は欧米列強に日本を売り渡すものであると非難したことで評判を呼んだ。陸は徳富蘇峰などと共に、明治中期を代表する政論家として知られている。陸は明治時代の国粋主義を代表する論客であった。だが、陸をはじめとした明治時代の国粋主義者は日本における社会主義の紹介者でもあったことはあまり知られていない。陸は政論を書き始めた当初から社会問題に関心を持ち続けていた。陸の社会問題に対する見解を示す代表的論説が明治三十年に書かれた「国家的社会主義」である。本稿では、「国家的社会主義」を中心に陸の国家観を明らかにしていきたい。

「国家的社会主義」の詳細

陸は明治三十年に「国家的社会主義」と題する社説を連載し、欧州での社会主義運動、労働運動の動向から足尾銅山鉱毒事件までを視野にいれ、「自由主義」が不平等を増進させる弊害を指摘し、国家が「社会経済の弊を匡救」する「国家的社会主義」を唱えていたのである。もっとも、陸が唱えた「国家的社会主義」はマルクス風の階級闘争を主張するようなものではなかった。むしろそういう事態が起こることを避けるためにも、政府は積極的に弱者救済に乗り出さなければならないという論旨である。

陸は、経済は放任されることで弱肉強食が広がること、さらにわが国ではそれが藩閥政府の政策により人為的に不平等を増進させることになっている弊害を指摘し、国家が「社会経済の弊を匡救」する国家的社会主義を唱えた。国家的社会主義は、国家は治安を保つためだけにあると考える「自由論派」や「軍人官吏貴族富豪」の利益を保護するための藩閥「国家主義」とも異なるとした。国家は弱者救済などにおいて、社会主義を実現するための最高の機関であると論じた。

国家的社会主義は弱者を救済するからといって「共産主義」や「虚無主義」と同一視すべきものではない。国家的社会主義は貧富貴賤を問わず一定の責任を負う「社会の連帯責任」が基礎にある。そのために「遊惰の民を強ひて業に就かしめ、貧弱の民を護して堵に安ぜしめ」、「不倶亡恃の民」を救う。これは本来家族や郷里の役目であるが、「教育」、「賉救」のような個人の力の及ばないものは国家は間接的にこれを支援する義務があるという。社会経済の放任は、「時代及土地の異同」を通じて行われるべきものではない。貧しき人を救うことは国家的社会主義の大旨に合うが、政府が直接救済するよりは個人もしくは郷里に委ねるべきである。ただし製造機械、交通機関の進歩によって労役の収入は大いに減じたとして、新たに開拓された土地から廉価な農産物が輸入され農民が利益を失うことなどを例としてあげながら、これを「文明的飢饉」と呼び、「国家若し飢饉等の禍害に際して窮民を救ふの義務あらば、此の文明的飢饉に於て其の義務なしといふ可からず」と述べた。

陸は西洋の「クローヂオジヤンネ」の説を引用しながら論を進めている。そこでは主に軍事費と経済の関連に関心が向けられ、軍事費の増大が庶民の生活の困窮に繋がることを指摘した。軍事費が歳出の大半を占めるような状況では物価の高騰を招くとして、「右手に莫大の公債軍隊」、そしてそれを補うための救貧法案は「左手に中産以下の経済の便を図る」状況だと言う。しかしそれは「吾輩をして国家的社会主義を説かしむるには頗る好機」であるとした。欧州では宗教家の「基督社会主義」、哲学者の「講壇社会主義」を経てビスマルクなどの政治家が国家的社会主義に沿う政策を実行したことを振り返り、「一個人に任して望なき者又は一個人に委して害ある者は、国家に之を委任す」ることは「不易の真理を有す」と述べた。国家的社会主義は立法においても財政においても中産以下の経済に便宜を与えると主張したのだ。

陸は欧州のような「資本家に対する労役者の苦情」は日本では起こっていないが、近いうちに起こるはずだという見通しを示している。欧州における「社会流行病」は「労役問題」と「武装平和」であり、両者は「並発」のものだとした。その上で日本では藩閥政治家が「不用の階級を社会に故造」し、「無道の保護を姦商に与」え、さらに今「武装平和てふ病毒を故に東洋に輸入」したことで社会主義の発動は正当なものとなったとしている。その上で信用組合の利点を訴え、「労役者対資本家の激動を俟ちて始めて適用せらるべき者にはあらず」と述べ、「社会若し経済一方の生存物ならば、貧富の懸絶を経済進歩の因果として之を放任する亦た妨げなしと雖も、貧民の増加は社会の佳象にあらずして、寧ろ国の治安を脅かすものなり。国家的社会主義は此の状態に促されて興るのみならず、今は又た此の状態を予防するの任務を有す」とした。

国家的社会主義は経済的なものに限らず「衛生」や「教育」にも関わる問題だとしている。学齢期の子供を学校で教育させる「強制教育法」や伝染病患者を入院させる「強制的衛生法」はみな国家が社会に干渉する制度であるとして、後藤新平が明治二十八年末に出した意見書を引用し「恤救」を訴える。その上で「社会主義の必ずしも破壊的にあらざることを知らしむるは此に在り。蓋し、建設は或る意味に於て是れ直に均勢の謂に外ならず。苟も均勢を失へば、破壊立どころに至る」として今の政府はむしろ不平等を促すことを任務としているかのようだと論じ、「吾輩は今日までの国家主義をこそ目するに破壊主義を以てしたれ」と主張した。社会は放任すれば「均勢」を失い、混乱してしまう。したがって国家によって救済しなければならないが、国家は万能ではないので、国家的社会主義の応用も制限されざるを得ない。「窮民」に直接衣食を与えることは容認できないとする。

陸は、国家は財産などを持てるものと持たざるものの媒介を果たす役目がある。その上で「自由主義」は国家の干渉を非とし、裁判、警察の他はなるべく個人に放任する考えであり、それは一面の真理を含まないわけではないが、弱肉強食は裁判や警察だけでは防止しがたいものであり、「社会の均勢」、「国力の充実」のためには別に国家行政上の干渉を必要とすると述べた。国家が弱者救済や教育、職の斡旋、犯罪者の更生を促すのは「国家其物の長所に非ず。唯だ個個人々の力不及を補護せんのみ」だという。また刑罰の問題にも踏み込み、国家が裁判や警察によって治安を保つことのみを職責とするならば犯罪者の教育は「入らざる御世話」である。犯罪者の多くは個人の責任ということになり、税金で教化する必要はないということになってしまう。国家的社会主義はそのような「冷淡趣味」のものではなく、「監獄費の増加」を要求するよりは、むしろ「感化院の補助費」を要求することを名誉とする。政府にはそういった発想はない。国家的社会主義はまず政府の改良から始めなければならないとした。

「国家的社会主義」では足尾銅山鉱毒事件についても触れている。まず鉱毒事件はもはや農商務省だけの問題ではなく、社会の問題、国家の問題であると宣言する。そして国家的社会主義は弱者寡婦孤児の保護と富強者との共存を旨とするとした。「放任主義」に依れば法律に反しなければいかなることも悪事ではなく、富強となるものは「社会の優等者」であるとみなしている。「優等者」に圧倒されて愁訴するものは「社会の劣者」であり「社会の穀潰し」でありそれが競争に敗れるのはむしろ社会の幸福とみなしている。このような不人情な主義が政界を覆って久しい。少なくともいままでの藩閥政府は「福沢主義」なるものを採用し他の一面においては「独逸主義」を加味し社会の道徳的秩序を破壊している。「冷淡なる放任主義」と「偏頗なる干渉主義」が抱合したものが「藩閥主義」であるとした。「藩閥主義」は社会の富強者を保護しますます強化させ、同時に社会の貧困層を放置しますます苦境に陥らせている。このような奇怪な国家主義の下では貧しい者は富者に虐げられ鉱毒を吸わざるを得ず、民事裁判も往々に泣き寝入りをせざるを得ない。国家的社会主義は「冷淡なる放任自由主義」や「偏頗なる藩閥国家主義」を批判して不幸な人々をかばうもので、「本と仁者の熱脳より湧き出でたる主義に外ならず」とした。政府の鉱毒事件の処分は「緩慢」である。鉱毒調査委員会の設置は被害人民を慰めたが、今日数百人の農民が満足せず上京して政府に歎願するような事情をみれば今さら調査する必要もないほど鉱毒の害は明らかではないか。調査するとしても仮に銅鉱業を停止してから調査するのが時宜に適する処分ではないのか。鉱主は東京の富豪であり権門勢家の姻戚であるから、営業権を停止することは現政権にとって最も難しいことだと言うのか。鉱毒事件は「国家的社会主義のために正しく好材料」と言うべきである。鉱業は国の生産力を増加するものであり、これを抑制するのは政府の干渉で経済を妨害するものだというのは物質を見て人道を見ていない。国家的社会主義は「人道」より生じたものであり「物質的経済論」とは相容れないとした。

以上が「国家的社会主義」の要約であるが、その思想の由来はどこから来るのだろうか。わたしは陸の旧来からの国家観にあると思う。

陸羯南の国家観と国家的社会主義

陸は貧困救済を政府が行うことに反対している。国家が直接的に社会にかかわっていくことへの警戒心からであった。陸は社会などを通して間接的に救済すべきと主張しており、地方や家族などの小共同体を重視した。

陸の経済観として、例えば国家的社会主義で「社会若し経済一方の生存物ならば、貧富の懸絶を経済進歩の因果として之を放任する亦た妨げなしと雖も、貧民の増加は社会の佳象にあらずして、寧ろ国の治安を脅かすものなり」と述べているように、社会を市場経済だけではない存在とみなしていることがわかる。こうした感覚は、古くは例えば明治二十三年九月十六日~十八日の『日本』論説、「士」で、「三田学派」が「町人主義」を主張し「人間社会を見くびりて、銭の一方に推し片付けん」とし、「人間の美性」、「社会の妙機」は「算盤以外に動く者」であるとして、「物質的階級」のほかに「霊心的階級」があり、上流の者には「社会の為に風紀を支持する役目」を求めたことがあったことからも年来の主張であったことが伺える。

陸の国家観の特色としてよく先行研究でも挙げられるのは、有機的国家観である。「器械的国家と機関的国家」(明治二十一年十一月十一日、『東京電報』)では国家のあり方を「器械的国家」と「機関的国家」に分類し、機関的国家は有機体として調和一致の働きをなし、器械的国家は命令と服従の関係として、「機関的国家」を目指すべきだと主張した。陸は国民が「調和一致」する国家を模索したが、これは「経世済民」の儒学的感覚である。儒学的な感覚を基にしながら西洋思想を参照して理論づけていくのは陸の政論の一つの特徴である。

「国家的社会主義」の中では「人道」や「博愛」という言葉が登場するが、陸は「生理的・動物的存在たることに止まらぬ人間存在の独自の価値」を「人道」と呼んでいた。そうした「人間性」つまり「ヒューマニティ」の訳語として「人道」もしくは「仁」「博愛」という言葉を使っていたとされる。そこでは「人道」は「人類愛」として理解される。本田逸夫は「陸羯南の『人道』観に関する覚え書き」で、福本日南の「人道とは何ぞや」を引用しつつ「人道=仁=ヒューマニティ」と言う理解が陸、福本両者にあったとしている。その上で「人間の力の限界に鑑みて、「人道」は身近な人間集団から、家→郷→国と言う順序で「拡弘」し最後に世界へ及ぼ」すべきだと考えていたという。また植手通有は「平民主義と国民主義」で、「伝統思想と西洋思想との交錯のうちに、宇宙には普遍的な「道理」が存在するという伝統的な信念が保持され、その価値体系の根底を形づくっていた。彼が「道理」とか「公道」という観念は、いずれかというと儒教の系譜を強くひき、機構としての国家とは区別された意味における道徳共同体としての社会の原型ないし目的ともいうべき性格を帯びたものであった」と評価しているが「道理」、「公道」だけではなく「人道」も儒教的教養から唱えられたものと言えよう。

陸は「社会問題研究会」の評議員にもなっている。「社会問題研究会」の活動実態は明らかになっていない部分が多いが、山路愛山は明治四十一年「現時の社会問題及び社会主義者」で「(社会問題研究会には)三宅雄二郎氏、陸実氏も亦名を会員名簿に列し、殊に陸氏の如きは深き興味を社会主義に有し、其主宰する日本新聞に於て人間は自然の状態に満足して已むべきものに非ず。弱肉強食の自然的状態を脱し、強もまた茄はず、弱も茄はざる一視同仁の人道を立てゝ自然の運行以外に別に人間の天地を開くは是則ち社会主義の極意なるべしとの意を述べたり」と回想している。この回想を見るに陸が社会問題解決、そして陸なりの「社会主義」の学習に熱心だったことが伺える。

ところで明治二十年代末から三十年代には政教社及び『日本』が社会主義に多大な関心を抱いた時期でもある。例えば内藤湖南は「社会主義を執れ」(明治二十五年五月二日)を書いている。これは内藤湖南が社会主義の採用を訴えたものだが、その中で「社会主義は進歩の標準を表する者、孟軻氏が所謂王者の道、而して西人の実に人類共存の理想とする所なり」と述べている。長沢別天には「社会主義一斑」(明治二十七年三月~五月)という論説がある。これは西洋社会の社会主義の流れを説明したものだが、社会主義を「破壊主義」とみなす見方に批判を加えている点で陸と共通している。また福本日南には「足尾銅山鉱毒事件」(明治三十年三月五日)がある。これは『日本』に掲載された論説である。明治三十年当時の『日本』の論調に符合するようにこの論説も鉱毒民に同情の念を持ちながらも政府の「処置」に期待している。陸の「国家的社会主義」もこれらの流れの中に位置づけられると言えよう。

「国家的社会主義」は日清戦後の軍拡批判の中で現れた。日清戦後、政府が軍拡に走ることを批判し、政府よりも社会を擁護する意味を持った。それは年来陸が唱えてきた有機的国家観に由来しているのである。

陸にとっての放任と干渉

陸は経済の放任と政府による干渉のどちらかを単純に唱えたわけではなかった。放任と干渉の間の均衡状態を模索していたように思われる。例えば陸は「自由主義如何」という論説をこう結んでいる。

吾輩は単に自由主義を奉ずる者にあらず、即ち自由主義は吾輩の単一なる神にあらざるなり。吾輩は或る点に付て自由主義を取るものなり。故に吾輩は自由主義固より之に味方すべし。然れども吾輩の眼中には干渉主義もあり、又た進歩主義もあり、保守主義もあり、又た平民主義もあり、貴族主義もあり、各々其の適当の点に据置きて吾輩は社交及び政治の問題を裁断すべし。

即ち陸にとって「自由主義」も「干渉主義」も「進歩主義」も「保守主義」も「平民主義」も「貴族主義」も単純に主張するものとして信用に足るものではなくその「適当の点」において使用することが政論の主眼であったと言ってよい。国家が経済を管理するのか、各人の自発に任せるのかは陸の中で常に模索されていた。

陸は、基本的に社会的弱者を保護すべきと言う考えを持っている。しかし一方で政府予算の緊縮を求め続けていることも指摘できる。放任論は予算削減つまり国民の負担軽減が目的であり、社会主義(干渉論)は階級闘争の予防として語られ、どちらも国民のための政治を目標として論じていた。その時々において必要と判断された方を重点的に唱えたのである。一方で武力や金銭による輿論誘導を好まなかったために「道義」を説く傾向にあった。

陸は、放任と干渉のどちらかを極端に主張した論客ではない。その理由としては干渉を容認すれば官が腐敗し、放任を唱えれば格差が拡大するからであった。また陸は弱者の救済を熱心に主張してはいたが、政府による直接救済には慎重な立場であったため、具体的な方策が見えにくい感は否めない。だが同時に、経済において弱者が救済されるべきであることを主張し、それが鉱毒事件の被害者への救済を主張するにまで至っていたことを思い起こすべきである。陸が鉱毒事件を報道したとき、それはより良き国家観の模索に繋がっていた。植手通有は前掲論文で「彼(引用者註、陸羯南)は民衆の生活と利害にたいし、たえず鋭い関心を払っていた。ただ、彼にとって、民衆、とくに底辺の民衆は、政治の主体ではなく客体にすぎなかったから、労役者・小作人や細民の問題は、結局政府・官憲や資本家・地主の『注意』、あるいは皇室の『慈恵』にその解決が委ねられる」と書いている。確かに陸が政府の適切な対応を終始求め続けたことは疑いない。しかし鉱毒事件においては「注意」や「慈恵」といった精神的問題にとどまらず「鉱業停止」と言った解決策にも踏み込んでいた。それだけでなく『日本』紙面に載ったさまざまな報道にまで視野を広げれば、地租増徴反対や東北の凶作に関する対応までも報道し、具体的な対策を提示していた。これらを陸の政治思想として位置づけるのは強引としても、それらの言論を訴える場の提供者であったということは言えるだろう。そもそも明治時代の国粋主義は高島炭鉱の劣悪な労働条件を告発するところから始まっており、『日本』の前身『東京電報』においても柴四朗が「高島炭鉱視察実記」を連載している。そのとき柴は炭鉱問題にとどまらず広く労働者一般の貧困問題をも視野に入れて論じていた。陸が「国家的社会主義」の中において鉱毒事件を絡ませたことと構造が似通っている。社会問題への関心は決して日清戦後に急造されたものではない。対外硬、国粋主義で世間に注目された陸羯南の国家観は、国民が一蓮托生のもと国際社会を生き残っていくという視点で貫かれていた。

たびたび述べているように、陸は弱者救済に熱心であったが、政府が直接弱者を救済することは専制政治に繋がる恐れがあるので、郷里や家族の力により救済されるべきと言う考えを持っていた。なぜその考えに至ったかと言えば、国民の歴史的継続性と有機的国家を強調する思想にあった。そのような世界観の中で社会問題に対する具体的議論として鉱毒事件に対する報道が表れたと言えるのではないか。陸羯南の経済論説は対外硬の論説とともに、彼の国民の歴史的継続性と有機的全体性の理想を指し示している。

 

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