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スクショ

私はスクショをよくする。
ボタンを押して一発保存。すごく便利な機能。スクショがとても好きだ。

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SNSで見かけたら、出会い頭に何でもスクショする。
なるほど!これはいいなぁ!絶対覚えてこう!と思う。


しかしこれらを見返すことは一切ない。

カフェを出る時には何をスクショしたか忘れ、自宅でコートをしまう頃にはスクショしたことを忘れている。


そして、一度たりとも思い起こすこともなく「あっこれスクショしたっけ?」「これはなんだっけ?」と、年末のデータ整理の時に気づく。
この、スクショを消すのが私の年の瀬行事になっている。
そうやって、1年かけてデジタル的に保存されたモノはスマホの奥底へ沈澱する。



私たちは基本的に何も覚える事ができない。

スマホのように器用に、ボタンひとつで記憶・保存ができない。
心はそれらを覚えない。


私たちに備わっている「記憶」という機能は、ボタン二つの同時押しで簡単に起動するものではなく、何か強烈な刺激や、その瞬間に大きく揺れ動く感情がないと起動しない。


それでいて、起動させたくても自分で起動できるものではないし、なんか勝手に起動してしまう時もある。しかも、起動したってそのまま保存せず、

感情で画像がねじ曲がったり、一部が文字化けして見れなくなったりもする。

スマホだったら即廃棄レベルの粗悪品。



スクショとは比べものにならないこの”記憶”という機能。

そんな「記憶」の唯一良い点は、
自分の成長や変化とともに形を少しずつ変えつつも、
あなたがそれを必要としなくなるまで無意識的にあなたに寄り添い続けること。

忘れたくても、忘れちゃいけないことはずっと残るし、忘れてもへっちゃらなことは二度とフォルダから引っ張り出せなくなる。

そして絶対に忘れたくない思い出はいつまでも色褪せないだけじゃなく、色を変えながらあなたに寄り添い続ける。
時間が経てば経つほど、鮮やかな色に変わり、たまにひょんなきっかけで再登場してくれる。

旧友や家族、恋人と当時を懐かしんだり、
最近できた友達と幼少期の思い出を共有しようとした時に
忘れていた記憶が突然引っ張り出され、ポロポロと口から溢れ出る。
ひととおり共有されたら、また記憶の奥底沈んでゆく。
次いつ会えるかは、わからない。


自分からアクセスできないし、何が出てくるかも分からない。
出てくんなよ!忘れさせてくれよ!って思うことが突然出てきたりするけど、それもいい。私は「記憶」が好き。

母と先日話をしていた時に、
小学1年生の私がジャングルジムに1人で登り、こわくて降りられなくなっていたという話になった。

母が僕を担いでくれて、その時母の長い髪が鼻に触れていた「記憶」が私には確かにある。


しかし母は
「泣きながら自分で一段ずつ頑張って降りてて可愛かった」
「足をかける場所を教えてあげたら最後まで自分で降りた」と言い張る。

僕は母の甘い髪の香りと優しさを、母は僕の勇姿を記憶している。

これはスクショでは起こらない。
素敵な記憶がふたつ残る。


どちらが正解か?なんてことは関係なく、その記憶は私の人生と母の人生にただ寄り添ってそこに居続けてくれている。
たいせつな記憶は一生削除されることはない。


スクショのように全然正確じゃないけれど、記憶はいい。


とか色々思いながら、今日も私はスクショし続ける。
さっきスクショしたものはもう思い出せない。
偉人の名言も覚えられていないし、先月より2キロ太ってるし、いまだに仕事のメールに「!」をつける。

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