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言質をとり、誇る人たち

「あの人この前『こちらで問題ない』と言ってましたよねー?」

またこんな声を聞いた。


言質(げんち)をとる人が多くなった。
本当に多い。


【言質をとる】
後々何かのトラブル等に見舞われた際に、
証拠として出せるよう相手から言葉を引き出すこと。などと定義されている。

言葉を“人質”のように扱い、
その言葉でもって自分の優位性を保つ。
仕事上では、先方との交渉を有利に進めるために活用されることが非常に多い。

この“言質をとる・とられる”が、
とても息苦しい。

「今日もどこかでこれに触れる瞬間があるのか?」と思うだけで苦痛。

言葉が人質のように扱われる局面にでくわすたび、私の心は消耗する。
あなたもきっとそうではないか?


なぜ、言質をとるのか?


上司への許可どりも
“言質をとる”文化のひとつ。
プロジェクトを進めていく際に、
大きなお金が動く選択や、進捗的に後戻りできない工程にさしかかった時の選択は、
「このまま走ってOKだよ」という上司の許可がなければ、実務担当者ではできない。
責任を負いきれないから。
だから言質=許可をとることは必要不可欠。

ただ、“この業務を安全に進めるため”の
言質をとる・とられる文化が目的を見失い、
少しズレ始めているように感じる。


“要職につき重要な決断を下さねばならない人間が、失敗した際の責任追及から逃れるために明言を避ける”文化へ変化してしまった。

「ここでOKを出して後々とんでもない結果になった場合、責任を追及されるのでは?」

「あっ、でも決断を下すのは私の仕事か…」

「でもここで間違った決断をすれば責任が...」

と、ジャッジをためらう人を多く見かける。
そして...

「確かにこのプロジェクトは前向きに検討していくに値するレベルに達しているので、ぜひともリスクを考慮しつつ前に向かっていけばいいなと私は思いますね」

みたいな、
もう何言ってるのかさっぱりわからない日本語が口をついて出るリーダーが非常に多い。

リアルタイムの会議ならば、
その人の発言で時間が数分無駄になる。
メールなら数日待たされた挙句、
“なんか言ってそうでなんも言ってない”メールが届く。
現場は混乱し、業務は進められない。
その結果スケジュールだけが圧迫されて全体のクオリティがダダ下がる。


業界・職種問わず、
こういう状況があるとよく見聞きする。


いやいや…
OKなのかOKじゃないのか?
OKじゃないならどの点を改善したらOKになるのか?
それともどこをどう改善すればOKになるのかわかってもいないのか?

それを言えやっ!!

そう思う人はとても多いはず。
私もその気持ちが痛く分かる。

要職につく人間が実務に関して十分な知識がなく、単純に判断能力が一定のレベルを超えていないことが要因であることが多い。
しかしこの問題のもう一つの大きな要因は
“言質を過剰にとる人”のせいだとも思う。

業務が失敗に終わった場合、
「最終OKだしたのはこの人ですよー!」
「あなたがこういったからやったのに!私は悪くないです!!」
と、ジャッジした人間を過剰に責め立て、
自分には一切の責任はなかったと主張する文化=言質をとる文化”が、
そういう「ジャッジできない要職者」を生んでしまっている。

この過剰に攻め立てて、
自らを保身する人たちの存在が非常に厄介。
ジャッジできない要職者よりも厄介。
シンプルに仕事を遂行する上で邪魔者になる。
そういう言質を過剰にとる人がいると、
リーダーは思い切った発言やジャッジができなくなり、チーム全体の決断力が弱くなる。
マイナスしかない。


物事がうまくいかず失敗する。



これは決して誰かひとりのせいではない。
複数の要因が絡み合って失敗するし、
それらの要因全てを事前に取り除き一発目で成功することはほぼ不可能。
引きで見れば成功でも、部分的には必ずどこか失敗している。100%うまくいくことなんてない。

もちろん最終判断を下した人に
失敗の責任がのしかかるのは事実だが、

「こちらで問題ございません」と言っても、
後々問題になってしまうことだってある。

「OK!これで進めよう!」と言っても、
進めたその先が崖だったこともある。

複数の失敗因子を事前に検討しても、気づかなかった落とし穴に落ちてしまうことがある。

ジャッジする人がミスしてしまうことは当たり前にある。


「あの人この前“こちらで問題ない”と言ってましたよねー?」

あの人が問題ないと言った時は、
問題はなかったんだよ。
少なくとも見当たらなかったんだよ。
なんなら、君はうっすら問題に気づいていたかもしれないが、プロジェクトを進めたいからそれをうまくプレゼンで隠しつつ
“こちらで問題ない”という言質をとったのではないか?

問題が起こったことは
全てジャッジした人間の責任なのか?

あとから発言を引っ張り出して、
自分の正当性を過剰に説くな。
責任の全てを誰かに押し付けるな。
と強く思う。

言質をとったことを誇らしげに、過剰に、
主張する人を見ると
「あーこの人は誰のことも信用できないし寂しい人なんだ」と思うし
「かつて誰かに大きく裏切られたのだろう」と同情してしまう。

私も言質をとらなかったことで、
これまでずいぶんと痛い目にあってきた。
でも同時に、私は言葉を信じたことで助けられたこともある。

「絶対!」や「必ず!」なんてないのだけど、
「絶対大丈夫!」「必ずなんとかする!」と
そばで勇気づけてくれる上司がいたからなんとか立っていられた。
結果的にそのなんとかなってほしかったことはなんともならなかったが、
“絶対”と言った手前、なんとしてでも実現させようと努力をしてるその人の姿を見て“人間”として信用できた。

「ごめん!どうすることもできなかった」と
言われた時は「そんな風に想ってくれる人の存在がいるだけで私にとってはじゅうぶんだ」と、信じてよかったと思う。

少なくとも私は
その“絶対”と“必ず”を信じたし、
実現しなくても「大丈夫!なんとかする!」と言ってくれた、その人の心の豊かさを忘れない。その時その言葉で私を救ってくれたから。


言葉は人質のように扱うものでもない。
言葉は人を鼓舞したり、
勇気づけるために使われるもの。

その言葉がウソか誠かが重要なのではなく、
その言葉を発した人間の気持ちがウソか誠かを見極めることが重要だと思う。

言質をとって過剰に誇るなんて愚行中の愚行!明日はそういう状況に出くわさないい1日であることを願おう!

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