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【深い社会】21 時間も限られてきましたので、正直に言っちゃいます。

『学び合い』と「学び合い」。
西川純氏や佐藤学氏が主張する教育方法です。

「教師が何もしなくていい」「むしろ何もしないほうがいい」
という点について、自信のない若手教師にとっては
飛びつきたくなる教育方法であろうと思います。

しかし、やってみると、思うようにはいきません。

「子供に反発された」
「保護者から反発された」
「成績が上がらない」
「同僚から批判された」

そのたびに若手教師たちは反省します。

「私の技量が足りない」
「「学び合い」が悪いわけはない」
「私の努力が足りないからだ」
「私の認識があまいからだ」
「私が悪い」「私が悪い」「私が・・・」

ええい!ちょっと待て!!

ここで、コペルニクス的転回!
なぜ、「『方法』が悪いから、上手くいかない」と思わないのか!

はっきり言います。

「あなたは悪くない!!」

もともと「学び合い」の学習は「協同学習」が理論的支柱となっている実践です。
協同学習は主にアメリカで開発されてきた学習方法。
バズ学習、ジグソー学習、LTD学習など、さまざまなバリエーションがあります。
それぞれに良さがあり、それぞれに課題があり、
課題を解決するために、現在進行形で修正され続けています。

ところが、『学び合い』「学び合い」は違います。

このやり方が正しい。
できないのは教師が、学校が、理解していないからだ。

硬直的で排他的です。
集団主義教育以外の何ものでもないです。

はっきりこう言えるのも、私自身が学び合う学習をしたことがあるからです。
学び合う場を与え、学び合うスキルを教え、実際に学び合う子供たち。

外から見ると、ああ、学び合っている!
ああ、学びの共同体だ!

そんな風に見えます。他の職員にほめられもしました。
でも、やっぱりそれは、どこか形式的なんです。

そして、なにより学び合いの罠。
知らず知らずに見えない「差別」が広がっている。

『学び合い』も「学び合い」も、成立条件は集団としての健全性にあります。
学び合う集団が成立するためには、健やかな「学びの共同体」が育っていなければならない。

勉強が苦手な子は、自尊心を捨てて「分からない」「教えて」と言わなければならない。
勉強が得意な子は、より成長したい個人の気持ちを我慢して、分からない子にいつまでも教え続けなければならない。

集団の健全性を求め、
子ども一人ひとりに倫理性を求める学習方法なんです。

たとえ教師が、「助け合え」「助けを求めろ」
「協力するのが良い学び、良い集団なのだ」と主張しても、
子どもは心の奥底で、冷たい眼で、仲間を、教師を、見つめています。
気づいていないのは教師だけかも。

さて、「学びの共同体」はアンチテーゼを抱え、消化することができるのでしょうか。


構成主義へのアンチテーゼ①

1 形式主義に陥ってないか。
2 子どもは自由であるか。
3 教師の創造性を阻んでいないか


特に、3番。
「「学び合い」の授業は素晴らしい。」
「『学びの共同体』こそが、これからの教育の姿だ。」

と声高に言われて、
ん~、え~、うむ。

『学び合いの教師は学び合わない。』

そう感じるのは、私だけですか。

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