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家父長制は、双方の知らない所で「女に都合のいい形」にアップデートされている

※ここで「双方」とは、(第4波フェミニズムが台頭する直前までの期間に)政治的に力を発揮したフェミニスト・アンチフェミ双方のことを指します。

「お小遣い制」という経済DV

大谷翔平選手の専属通訳であった、水原一平氏の賭博問題は、思わぬ方向の界隈にも飛び火したようです。

この「お小遣い制(広義には、家庭の財産管理権が一方的に妻にある状態を指す)」の問題は、「主流言説」に登ることはなかなかなかったものの、草の根の反フェミニズム・マスキュリズムではかねてから活発な議論が存在し、様々な意見が現れては消え消されを繰り返していたものです。

この家庭慣習は東アジア(実質的には日韓二か国。中華圏にもないらしい。確か中国語メディアでも「日本人女性と結婚する場合は、実質的な財産権を取られてしまうことに要注意」と報じられたことがあった)に特有のもので、逆に欧米では女性に財産権がなかったからこそ女性の社会進出フェミニズムが栄えたとも言われています。

それでは、女性エクゼクティブを増やし、「女性の社会進出」(GGI順位の上昇)を達成するためには何が必要なのか。
ゴールディンの議論が示唆する唯一の方法が、「女性大黒柱」方式、つまり稼得役割を女性が担い、ケア役割を男性が担うといった役割分担の形である。エクゼクティブ職がオンコール(いつでも働ける)であることを求められ、育児との両立が物理的に不可能である以上、この結論は変わりようがない。女性が主夫を養わなければ、女性の社会進出は永遠に進まないのだ。

現状日本の女性がなぜ外に出て働かないかと言えば、外に出て働く必要性が基本的に存在しないからだ。
日本をはじめとした東アジアでは「お小遣い制」なる性差別的な制度が蔓延しており、妻は外に出て働かなくても夫の所得を自由に使うことが許されている。このような状況で「お金を稼ぎたい」と思う女性が増えないのは無理もない。ジェンダー先進国である欧米各国では夫婦と言えども夫婦別会計が基本であり、コモンロー・マリッジやPACS(いわゆる事実婚)の普及により、離婚時財産分与すら認められないことも少ないない。
つまり友人とのカフェでのお茶会や、最新のiPhoneや、新しいコートを買いたいと思うなら、女性であれ自分の手でお金を稼ぎ、その金で買うしか選択肢が存在しないのがジェンダー先進国の実情なのだ。
日本においては稼ぎ手=男性という意識が強く、それに甘えようとする女性の意識も未だ根絶できていない。そもそも男性の稼ぎを一方的に女性が管理する「お小遣い制」が現代の人権感覚に照らし合わせれば経済DV以外の何物でもないが、そうした蛮習が未だ蔓延ってしまっているのが日本の現状である。女性の社会進出を実現するためには、こうした時代遅れの価値観は徹底的に変えていかなければならない。

つい先日(上記のツイートポストのあった日基準)には小山狂人がこのように述べたばかり。そこで今回は、その「お小遣い制」という慣習の背景について迫っていきたいと思います。

…といっても私の手元にはそんなに詳しい資料なりデータなりがあるわけではありません。しかしこのことを語る上で、欠かせない事項があることは確かです。

「家庭への対案」とセットだった日本の女性活躍政策

まず明確にさせておきたいのは、「家の財産は妻が管理する」ことが伝統的な日本の家庭慣習であったわけではないということです。

明治民法 第十二条
準禁治産者カ左ニ掲ケタル行為ヲ為スニハ其保佐人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
 一 元本ヲ領収シ又ハ之ヲ利用スルコト
 二 借財又ハ保証ヲ為スコト
 三 不動産又ハ重要ナル動産ニ関スル権利ノ得喪ヲ目的トスル行為ヲ為スコト
 四 訴訟行為ヲ為スコト
 五 贈与、和解又ハ仲裁契約ヲ為スコト
 六 相続ヲ承認シ又ハ之ヲ抛棄スルコト
 以下略

第十四条
妻カ左ニ掲ケタル行為ヲ為スニハ夫ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス
 一 第十二条第一項第一号乃至第六号ニ掲ケタル行為ヲ為スコト
 二 贈与若クハ遺贈ヲ受諾シ又ハ之ヲ拒絶スルコト
 三 身体ニ羈絆ヲ受クヘキ契約ヲ為スコト
前項ノ規定ニ反スル行為ハ之ヲ取消スコトヲ得

明治民法のこの規定は「妻の無能力」と呼ばれ、この規定によって財産管理権は夫にあるものと解釈されていました。その後、規定は戦後の現行憲法施行に合わせて撤廃されました。つまり、「家の財産は妻が管理するという慣習」は、少なくともその撤廃以降に興ったものと言えるわけです。

前項でも触れたように、欧米では(そして当然、中華圏でも)「妻に財産権がないこと」は女性の自立・社会進出、そして最終的には婚外子増加の大きなインセンティブになっていました。つまり、一つ考えられるのは、そもそも「妻が管理するという慣習」自体、「社会進出」を抑止するために行われた、あるいは「社会進出に対する対案」そのものだったのではないか、ということです。

こうした「家庭への対案」は、戦後日本の女性政策を見ていくと、意外に様々なところにあります。特にあからさまな例として挙げられるのは、1985年の男女雇用機会均等法成立と同時に、専業主婦の年金権を確立した第3号被保険者制度も成立したことです。

水無田 それからもう一つ、〈制度〉と〈実質〉って日本社会では常に二枚舌なんですよね。たとえば雇均法が施行された1986年に第三号被保険者制度によって専業主婦の年金権が確立したり、1999年の派遣法改正と同時に雇均法も改正されて実質的に女性は非正規雇用になっていき、女性のあいだの格差、アイデンティティの撹乱が起こっていく。そういったなかで、現在20代の女性は保守化していっています。要因はいくつかあるんですが、結局のところ〈制度〉や理念が〈実質〉に追いついてない点が大きい。特に1980年代の雇均法世代以降は子どもを産んで家庭に入る女性と、それ以外の個性的な生き方を選択する女性とに分かれました。
1970年代までは女性たちはほぼ専業主婦一択だったのが、1980年代以降はライフコースが大きく分かれてきて、子どもを産むことを選択するのは保守的な価値観の女性が多数派になっていった。つまり女性は個性的な生き方を個人としては選択できても、母としては無理だったのです。「良き母」でなければ、子どもは産めないし、産んだ以上は個性を放棄しなければならなかった。したがって1980年代以降の子どもたちは保守的な「ちゃんとしたご家庭」育ちが多いと推測できます。つまり上野千鶴子は個人として戦ったんだけど、大衆の気分や感覚に関しては、次世代を再生産できなかった。

―上野さんが何に勝ったかというと「産まない自由」を獲得したこと。何に負けたかというと「産む自由」を獲得できなかったということでしょうか。

水無田 そうです、1980年代以降に女性が「産まない自由」を確保できたことは上野さんの大きな功績の一つです。ただ、上野さんが「産む自由」について触れられないのは、再生産の問題はどうしても家父長制の問題に回収されて、再び女性が再生産役割だけに押し込められる危険性が高く、時計の針が反対回りになることを危惧しているからです。
実際出産育児言説って、今なお驚くほど保守的で専業主婦中心なんですよね。どれだけ他人からバッシングされても自分の道を行くことができた女性でも、「子どものため」という錦の御旗にはとても弱い。

―よくある批判としては〈上野千鶴子的なもの〉を突き詰めると家族破壊・家族否定につながってその結果少子化が加速されるというものがありますが、それは間違いだと思う。

問題は保守的な家庭に隷属しなくても子どもを産み育てられる環境を社会が用意できなかったことでしょう。

分断の要因として菊地准教授が注目するのは、1)1985年に成立した男女雇用機会均等法、2)1999年に公布・施行された男女共同参画社会基本法、3)アベノミクスで生まれた2016年施行の女性活躍推進法の3つだ。
1980年代に女性たちが求めたのは「雇用平等法」だったが、「均等」法は差別規制が努力義務にとどまる残念な内容だった。しかも、この法律がきっかけで、総合職と一般職という女性同士の待遇格差が生まれた。
さらに、1985年に専業主婦を優遇する第3号被保険者制度ができ、翌年に労働者派遣法が施行されたことで、女性たちは男性並みに働かされる総合職、補助的な業務に終始する一般職、非正規雇用の派遣労働者、そして主婦に分断されてしまった。

この二つはどちらもフェミニズム側の議論ですが、やはり「家庭に入ることを選ぶ●●女性」の無視できないほどの多さを窺わせます。

これを長期的な視点で見てみると、結局「女は家庭に入るべき」という立場のアンチフェミニストもその「家庭に入るインセンティブ」を強化せざるを得なかった、ということは言えるでしょう。

それが加速すればするほど、当然ジェンダーロールも「女の都合のいいように」ゆがめられていきます。その行き着く先は、いわゆる「全ての女性がお姫様扱いされる社会」です。

彼らがそこまでして「伝統的性観念」にこだわる理由

「女は家庭に入るべき」系アンチフェミニスト、すなわち伝統主義的アンチフェミニストが、このことを狙っていたかはさすがに私が知る由もないですが、まあそこまで考えていたとは思えません。

その意味で、伝統主義の性観念は「双方の知らないところで、女の都合いいようにアップデートされてきた」と言えるのかもしれません。もちろん、日本のフェミニズムには大きく二つの潮流があり、そのうち戦後の第2波〜第3波で主流になれなかったほうの勢力が、密かに進めていた所もあるのでしょうが。

しかし、そこまでして「伝統的性観念・家族観」にこだわる必要があったのか、とも思うところです。まあもちろん、それが「必要とされていた」理由は、私の記事を昔から読んでいる皆さんなら、すぐに分かると思いますけどね。

そう、「伝統的性観念・家族観」を維持しなければ、加速度的に非婚化・少子化が進むとされていたからです。その流れを止めるためには、「性の開放」以前のセクシャリティを取り戻すしかないとされていたからです。

最早「女は子供を産んで家事だけやってろ」などと考える男は絶滅したに等しい。女性がキャリアを築くことをほとんどの男性は肯定している。

今でこそ小山狂人もこのようなことを言い出しましたけど、彼だって数年前は伝統主義の理屈について理解を示していました。

非婚少子化・人口減少というイシューは、そのくらいまで反フェミニズムを「一枚岩」にさせていたのです。たとえそれが「別のフェミニズム運動」をエンパワーさせることになったとしても。

その根底にあるのは、「次世代再生産は、現状、女の妊娠出産によってでしか出来ない」という厳然たる事実です。この事実の下では、たとえ「お姫様扱い」になってしまったとしても、ジェンダーロールを維持することが、最も効率的に社会を持続させる方法であることは否定できないのです。

そしてこれも究極的には、「フェミニズムのただしさを保証しているのは政治的ただしさポリティカルコレクトネスではなく、共同体の子産み要員いわゆる「産む機械」であることそのものだ」ということに収束していきます。

我々「これからの反フェミニズム」が学ぶべき教訓

ここまで解きほぐしていけば、さすがに「取るべき方向性」は皆さんにも自ずと見えてくるとは思います。

そう、「女の妊娠」を介さずに次世代再生産できることを目指さなければなりません。しかし、なかなかこれまでその発想が出てくることは、オピニオンリーダーから草の根に至るまで、ほとんどありませんでした。

繰り返しますが、やはり問題の根源は「次世代再生産の手段が女の妊娠を経るという一択であること」にあります。この事実が覆されない限り、伝統主義アンチフェミは「解放」を上回るインセンティブを女に対して提示しなければならない弱腰の対応しかできませんし、「出産は男の労働で言う“命がけ”以上に命がけだ」とか「女は男社会の陰謀によって抑圧されている」という言説も真実として扱われるのです。

「選択肢を増やすこと」に根本から対抗できる手段は、こちらも「選択肢を増やすこと」だけだ

これは真面目に、「これからのミソジニー」・「これからのアンチフェミニズム」の合言葉にしていきたい一文です。