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【表現の自由運動にも大きく関わる話】なぜ「男性の生きづらさ」は、フェミニズムに媚びないと語れなかったのか?

フェミニストは「男も弱音を吐いてよい」といった主張をしますが、それを実現するには、まず男性がおかれている悪状況や被害が明らかになったとき、フェミニストやリベラリストから攻撃を受けない環境が必要ですね。
「男性の苦しみを述べると罵倒される」という話を思い出しました。
まさにこのnoteにもありますが、男性が苦しみを吐く際は、まず第一に「女性への配慮」が必要になります。
最初に「女性側には一切責任はありませんし、女性より男の方が辛いという事もありません。社会は常に男尊女卑で、この男の苦しみは特殊なケース(例外)です」という前提を示したうえで、ようやく問題を語ることができるようになるということです。
しかし、それは成人男性はもちろん、シェルターを必要とするような虐待を受けている男児にとって大きな負担であり、事実上、男性は苦しみを打ち明けられないということです。

フェミニストのレッテル貼り

この大きな理由の一つとして、フェミニズム側の「フェミニズムの批判者は復古主義者の傀儡。男性差別とかいうのはフェミニズムを無効化するプロパガンダ戦略に過ぎない」というまさに陰謀論めいた、レッテル貼りのような主張が挙げられます。

とりわけ日本においては、特に政治の世界において、「反フェミニズム」と言えば日本会議に所属していたりキリスト教右派と太いパイプがあったりする、パターナリズムな保守派・復古主義、あるいは伝統主義的な政治家しかおらず、それ以外の方向からの批判は、もちろん表現規制反対論も含め、完全に在野の少数派的主張でした(その意味では、山田太郎議員はかなり一人で頑張っている感じがあるんですよね…)。

このような状況下ではフェミニズムのレッテル貼りは世間にうっすらと受け入れられるしかありません。だからこそ、こうした誤解をかわすためにフェミニズムに媚びるしかなかった面は大きいと思われます。

このことを憂慮して久米泰介氏が出した声明が次の記事です。

マスキュリズムはフェミニズムを批判するため、ある大きな政治的誤解を受けやすい。
それは、男女平等に反対する意味でフェミニズムに反対しているアンチフェミニズムの保守派との混同だ。
これはフェミニズムは半ば故意にレッテル貼りなどで、リベラルの政治の中で自分たちが優位に立つために行ってくるが、また故意ではなくジェンダー保守派も勘違いして近寄ってきやすい。
日本でも、「男と女は違うんだ」「男女平等の”行き過ぎ”は間違っている」と主張する保守派がなぜかマスキュリズムの言説や文献を一部切り取って、理解しないまま利用しているパターンが多い。
実際に、「男性差別への反対に賛同する」と言って近寄ってくる人間で、マスキュリズム系(左派系)はほとんどおらず、大半は保守派である。例外は一定の高学歴である程度大学で思想や学問を吸収してマスキュリズムのリベラル的な本質を理解できる人だけであった。

この声明が出されたのは2019年4月23日のこと。私はこれを初めて読んだ時の衝撃が今でも忘れられません。当時(特に2018年の暮れあたりから)フェミニズムやミサンドリーを批判していたブロガーの一部に、それこそフェミニストのレッテル貼りを裏付けるかのごとく、こうした保守派の思想への回帰を表明する記事が立て続けに出されていました。

男女はその本質からして異なるものであり、男が子を産むこともないし、女が甲斐性を発揮することもない。男女平等は未婚率の上昇や少子化を促進し、社会を崩壊させる悪手であるとの結論に至った。
女性専用車両は「男性差別」や「男女平等に反する」という観点で反対をしていたが、もはや男女平等を支持していない私にとって、女性専用車両は許容できる存在になってしまった。
女性は性的価値が高い存在であり、それを意図しない痴漢から守るというのは正当性ある主張である、と。
同時に、男性は妻子を養う甲斐性を持たねばならず、女性よりも男性の所得を高くする必要があるというのも正当性があると主張する。もはや家父長制を支持していると言ってもよい。
そういう意味では「女性専用化社会」というタイトルは、男女平等であるべきなのに女性専用があるのは不平等だ、男性差別だという批判の意図があり、今の思想とは違うものになってしまった。
ぼくとミグタウの差違は、どこにあるか。
外から観察した時、或いはあまり違いは見えないかも知れない。恐らくぼくもミグタウも「何もせず、ぼーっとしてる人」ということになるはずですから。
しかし一方、ならばぼくとインセルの差違は、どこにあるのか。
主張を観察した時、或いはあまり違いは見えないかも知れない。恐らくぼくもインセルも「昔に戻せと言ってる人」ということになるはずですから。
そう、そういうことなわけです。
一応の答えとして、「主張はインセル、行動はミグタウ」というのがまあ、今のところ最も望ましいスタンスではないかと、ぼくは考えます。
男性問題(及び目下の地球のあらゆる問題)の処方箋について、ぼくはいつも「一昔前のジェンダー観に従った生き方をする」ことを提唱しているかと思います。
これに対してジェンダーフリー的なスタンスの人たちから、「男性ジェンダーのネガティビティを温存する気か」との文句をねじ込まれることがありますが、「そんなこと知るかボケ」以外に回答は、ない。
そもそも「一昔前のジェンダー観」以外のジェンダー観がこの世に現出したことは、今まで一度もないのですから、それ以外に選択肢がないのはもう、自明です。女性たちがある日突然目覚め、みな主夫を養ってくれる世界が訪れるとお思いになるのであれば、死ぬまでそれをお待ちいただければいいハナシですが、そんな与太につきあう気は、ぼくにはない。
少なくとも「一昔前のジェンダー観」の世界は今よりも遙かにマシでしょうし、そしてその上で、「しかしそれでもまだなお、男性は夥しいネガティビティを背負っている」ことに自覚的であればいい。

久米氏の声明は、まさに私がうっすら感じていたことをピンポイントで指摘してくれたものです。いくらフェミニズムのミサンドリー性・男性差別性が高まっているから、いくらフェミニズム(というよりかは「性の解放」)以前の社会がマシだったからと言って、解放以前の伝統的性規範を取り戻す合理的な理由にはなりません。

「アンチフェミニズム」と「保守派・復古主義・伝統主義」がイコールで結べるというリスク

この2つがイコールで結べるというのは、アンチフェミニズムにとっても非常に大きなリスクです。

反表現規制派の皆さんはご存じのことかと思いますが、規制派フェミニストの中には、「性の解放」の在り方、あるいはそれ自体に否定的・批判的な人も多くいます。

もし女性たちが、性の解放以前の規範を取り戻すことを求めるようになったら、どういうことになるのでしょうか?

確実に言えることが一つあります。「保守派・復古主義・伝統主義」の反フェミニズム論客は、全くこうした動きを批判できる立場に立つことができないということです。

結局高市早苗氏も野田聖子氏も落選しましたが、もしこのいずれかが自民党総裁となり、次の衆院選で自公維連合が勝利したら、両氏は日本会議国会議員懇談会に所属していますから、その規範が女性の手によって取り戻されることになっていたでしょう。山田議員だって本多氏(彼のスタンスは別にして)のような失脚劇を覚悟しなければなりません。

そして何よりも、それは本当に、保守派にとっても喜ばしいことなのでしょうか?!そんなことは決してありません。そもそも、その規範を女性が主導して取り戻すということは、そのほうが女性にとって都合がいいことを自覚しているからにほかなりません。いわゆる「家父長制2.0・男らしさ2.0」と呼ばれているものです。

「媚び」も最近は効かなくなってきている

さらに近年では、「男性の生きづらさ」言説を頭ごなしに否定・批判するフェミニストも増えてきています。ともすれば(その中にフェミニスト寄りの論客しかいないはずの)アカデミックなジェンダー研究さえも、批判の矢面に立たされていると言われています。

例えば「男性学」においては、フェミニズム側からの批判者として澁谷知美氏、平山亮氏などがおり、またジェンダー研究全体的にも、誰が言ったのかは不明ですが、「性の概念を相対化して無限のグラデーションとしてしまえば、地位向上・権利擁護の主体となるべき『女性』も存在しなくなり、フェミニズムの存立そのものを危うくするのではないか」などといった批判があります。

「ふたつの潮流」モデル

こうした反フェミニズムの状況を鑑み、私はここでフェミニズムの見方としての「ふたつの潮流」モデルを提唱したいと思います。つまりはこれのことです。

無題 (8)

「フェミニズムは一人一派」などとも言われますが、その主張の方向性は概ね2つに分類することができると私は考えています。詳しくは次回の記事で述べたいと思います

【追記】「統一教会とオタクの関係」問題について

さて、フェミニスト議連へのオタク・VTuber側からの抗議署名に、統一教会の関係者が関わっているらしいという話を聞いたので、この件についても述べることにします。

実はこの問題も、この記事で指摘していることと無関係ではありません。実際この問題はすでに、レッテル貼りの根拠の一つとしてフェミニズム側の一部論客に利用されています。

そもそも統一教会(の系列の政治団体)は、キリスト教右派的イデオロギーを強く持っているものであり、典型的な「保守派・復古主義・伝統主義」的反フェミニズム団体です。オタク文化と相容れるような存在ではありません。「フェミニズムと敵対している」ことを口実にして、このような勢力が接近してくることに、我々は常に警戒していなければなりません。

実は私も、まだ大百科掲示板にしかいなかった頃は、表現の自由を盾にフェミニストと敵対するオタク側についてもかなり懐疑的でした。

108 ななしのよっしん 2020/02/02(日) 20:40:46 ID: K/G40xWlKJ
しかし、今はこれももう過去の話になった。フェミニズムは「性役割が女性にもたらした恩恵」に気づいてジェンダー保守派を批判する必要がなくなり、ひいてはマッキノン学派とジェンダー保守派の癒着に注目する必要もなくなったのだ。
結果、現在では「腐ェミ」ともいわれるような、女性の性的搾取を批判しつつBLなど男性の性的搾取を擁護する動きが主流になり、そこへマスキュリズムが対抗言説を出すのは必然だったと思う。
少なくとも00年代当時はマッキノン学派系の団体でも一部BL批判をしていたものはあった。同性愛を嫌悪するキリスト教右派による肩入れの影響だったのであろうが、マッキノン学派とてその主張を黙認していた以上、「腐ェミ」のスタンスはこれらとも矛盾するものになってしまったと言える。
いわば、マッキノン学派とストローセン学派の(フェミ視点での)いいとこ取り、というところに落ち着いたのが性的搾取論の現状といえるわけだ。
結局しばらくの間、マスキュリズムではマッキノン学派をなぞる方が主流となるのは必至だろう。今後ストローセン学派をなぞる言説も出てくる可能性はあるが、いかんせん主張できる人があまりにも少ないからなあ…
125 ななしのよっしん 2020/03/14(土) 00:33:57 ID: K/G40xWlKJ
>>124
>そんな分断をものともしない「男性の権利の擁護」を目指す活動が成功するとでも思ってんのか?
いやそもそもアンチフェミの中で復古主義とそうでない動きを「分断」するのがこの思想の目的の一つとしてあるからな。
ミサンドリープロパガンダに気づかないこともそうだが、オタクの世界には復古主義の魔の手も大きく忍び寄っている。例えばProf.Nemuro氏はオタクvsフェミのどさくさに以下のような記事でオタクを復古主義に取り込もうとしたし、さらにオタク界隈の「内部にも」、兵頭新児という復古主義に迎合的な奴がいる、まあ彼は昨今のオタクvsフェミに対しては静観する立場を取っているのでオタクの中でも支持を集めてはいないと思うが…
青識亜論のように、これらの言説をきっぱりと否定できなければマスキュリズムとしてもオタク全体を信用することなんてできない。

>オタクコンテンツの中でお前が批判してるような作品を好む人間は「男性の権利を蔑ろにしてる屑」として疎外されることになり
そんな人間は、「男性の権利を蔑ろにしてる屑」以上のものではなかったということだよ。まずはミサンドリーに「気づく」ことが大切だ。
実際宇崎ちゃんの騒動もキャンペーン第2弾が始まったことでオタク側には「フェミに勝った」とか叫んでる人も少なくないんだけど、じゃあフェミ側はどうなのかというと、「こちら側の要求が通った」と言っている…これっておかしくないか?
フェミに勝ったと思っている輩はおそらくなぜフェミが宇崎ちゃんを咎めたのか、そしてなぜ主張を引っ込めたのか永遠に理解できないだろうし(その主張を是とするか非とするかはともかく)、もちろんミサンドリープロパガンダに気づくことすら望み薄だろうね。

>深刻なコンテンツを楽しむ権利の侵害が発生することだろう
 「コンテンツを楽しむ権利」なんて表現の自由とイコールではないし、そもそもHuman Rightsですらない。そんなものよりも著作権のほうが優越するのは誰が見ても自明だろう。

これは当時の久米氏が表現規制推進派であったことの影響も大きいですが、オタク論客にも「保守派・復古主義・伝統主義」の魔の手が確実に忍び寄っていたからです。下記記事の著者Prof.Nemuro氏は、そうしたイデオロギーを強く持った論客の一人で、この記事の前半で触れたような「ブロガーの保守派への回帰」を引き起こした張本人でもあります。

久米氏の表現規制論にマスキュリストとして対決するためにも、こうした思想・理論との接近は避けるべきものでした。そんな中で出されたのが以下の青識亜論氏の声明です。

現状でも、これまでの「保守派・復古主義・伝統主義」的な反フェミニズムを総括して、これとは別の方向からの批判を重視するというスタンスをとっている反フェミニズム論客は、オピニオンリーダーとしては彼くらいしかいません。久米氏や彼に続き、これまでの反フェミニズム思想とは一線を画す「反フェミニズム論客」が増えることを願うばかりです。