『善とは幻想である』に関する一考察



善悪や良い悪しについて
一般的共通理解があるようで
意外と曖昧な部分が多いので
ここで考えてみたいと思います

まず 善とは何であるか
『清く正しく生きる』ことが一般的には善であると考えられます

反対に人殺しは一般的には悪ですが
少なくとも戦時中には良しとされます

結論から書きますが
『善とは幻想である』
と考えています

幻想だと断言したのは
統一のルールを作れない事に由来します

宗教、社会や環境、組織など都合の良いように解釈されるもので
単に、問題を少なくする手段でしか無いからです

自分の所属する環境と感性が相互性が高ければ善に疑問を持たないでしょう

しかし、環境が変われば、組織が変わればそれも覆ります

「清く生きて死ぬ」ことを善とした場合
それすらも覆るものであると考えます

「清く」ということが既に善に属する言葉であり定義が善に戻ってしまうからです

生きる事こそが悪かもしれない
しかし、死ぬ事が善ではない

したがって
自分の信念以外、自分を律する善悪の物差しはなく
またそれは、共有できても絶対ではない曖昧なものである

しかし、一般的な良い事は共有されやすい
故に『善の本質は幻想』
共有された曖昧な良いとされる事の集団であると言える
同様に愛も幻想であると言える

人間という存在を第一とせず以下のように考えるとより分かりやすいかもしれない

・地球にとって人間は害悪である

宇宙にとってはあえてここでは考えないこととする

・「日本」という国に生まれ落ちたということは相当なアドバンテージなので
相当ちゃんとしないと魂が救済されることがないとします

上記の2条件で考えてみると
日本に生まれたということは
生活環境こそ満たされていますが
それは過去の祖先の行いの集大成であり
そこに感謝の意がないことは
良くないことです

また世界という観点から考えてみると
『世界をクイモノにしている』
という側面もあります

日本人が苦労だと考えるレベルを
はるかに超えた非人道的な労働環境の
方々の苦労を食い物にして
日本という世界が成り立ったいる
という側面があります

フェアトレードとか人民の虐殺とかが
その最たる例になります

繰り返しというかまとめになりますが
ふんぞり返って今ある環境に甘んじて
自分を悲劇の主人公だと錯覚して
辛い思いをしていると勘違いをして
惰性で生きてあまり世界のための
生産性の高いであろう善行をしていない
人の魂は亡くなったあと果たしてどこへ行くのでしょうか?

10年前の今日
東北で大きな地震があり多くの方が被災し
その爪痕が今も色濃く残っています

明日は我が身とならぬよう
どれだけ人の役に立つことができるか
考えて日々感謝をして
笑顔で過ごしていきたいものです

追記

人間に取って最大の善行は
清く正しく死ぬことである

つまり
『人にとっての最大の善は死である』
「死とは生の対極にあるのではなく、生の一部である」
また、
『子供や人や良い考え方、叡智を残すことは善である』

ということも考えられます

いずれにしても、人類とは
しょーもないし
人生とはまどろっこしいし
不条理だと思います

なぜなら人間には悪の要素が含まれていて
社会は碌でもない側面があることは
否めません

「黄金律」なるものがありますが
人間には悪の要素が程度の差こそあれ
確実に含まれています

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