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直感に耳を傾ける 旅と日々

旅にでて帰ってくると、なにか日常がちがってみえる。
ということに気づいたのは、20代の頃。

たった1,2日の旅行だったとしても、帰ってきたときに見えるいつもの景色は、もうそれまでとはなにかがちがう。


旅先ではいつも「直感まかせに行動する」と決めているから、そのセンサーが磨かれるからなのか。その中でいつもほんの少し、自分の何かがアップデートされるからなのか。


直感まかせの旅の合言葉はいつでも「行き当たりばっちり」なのだけど、タイミングも含めて、これ以上ないほどにしっくりとハマっていたりするから、それにもおどろく。
先日は、夫の福岡の用事に便乗していっしょに福岡へ。スケジューラーに「福岡」と書いてあるのを見つけたとき、まず思い浮かんだのは宗像大社のことだった。いつだったかテレビでみて、行ってみたいとずっとあたためていた場所。すかさず、わたしのスケジュールにも「福岡」と入れた。あとは、なんとなくわきあがるものを待つだけ。


宗像大社は沖ノ島にある沖津宮、大島にある中津宮と沖津宮遙拝所、本土にある宗像大社辺津宮の、3つからできている。

ホテルからシェアカーで1時間。そこから大島までフェリーで25分。いいタイミングでフェリーに乗れそうだったから、勢いで乗り込んで大島へ。島は自転車でぐるりとまわれるくらいの大きさで、展望台と、お社、日露戦争の慰霊碑があって、遠くに沖ノ島と、その向こうに釜山が感じられる。

私たちは原生林のような森や丘に囲まれた道を、野生動物の声を聞きながら、地元の方々と挨拶をかわしながら、ただてくてくと歩いて巡ってみた。(意外と広いので、レンタサイクルがおすすめです)

沖ノ島を臨む場所にあるお社から海を眺めてみると、遠くに大陸の気配が感じられて、わくわくする。日本海側の海岸に立つといつも、大陸への憧憬のようなものが、おどろくほど力強く体の奥からわきおこってくるから不思議。太古の昔、ここから出発していく人たちの無事を心の底から祈るような気持ちと、危険だとわかっていても、それでも行かずにはいられないと思うような気持ちにリンクして、いつまでもそこに佇んでいたい気持ちになる。

あまりに美しい自然や、そこにある時の流れの痕跡に心も身体もひらかれていく。

こういうときは、自分を手放して、明け渡しているのかもしれない。
ただ流れてくるものに、身をまかせるように。
ただなにかが通り抜けていく、ほんの一粒の通過点としての身体。そして、この明け渡すような瞬間が、わたしの何かを少しずつ変えるのだろう。今回でいうと、この土地と交わった時間の中で、未知の世界に漕ぎ出すときの勇気のようなものがほんの少し、自分のなかにもうまれてきたように。

帰りのフェリーですばらしくうつくしい夕焼けに包まれながら、そんなことを考えた。

世界と共鳴する瞬間の身体に、いつでも興味が尽きないし、世界と呼応して人生が進むとどうなるの?ということに、冒険心と好奇心がいつでもおさえられない。


福岡では、ぜったい食べたいものリストを3日がかりでコンプリートして、(人生ではじめてのモツ鍋とトリカワ。そして、五島うどんとごまさばと数々のおさしみ!!)夫の友人とごはんを食べ、糸島に暮らす友人とドライブをし、心も身体も、そして魂というものがあるのならそれもきっとふくふくと満たされた。

そうやって帰ってきて気づけば、2023年へのあたらしい流れが、自分のなかにうまれて巡りはじめている。


かすかな直感に耳を傾けるからこそ、たどりつける場所がある気がする。そういう時間を2023年はさらに増やしていきたいな。旅と、絵を描くことと、コーチングやワークショップなどなど、それぞれの創造の泉を掘り下げるみたいな時間。その創造の泉がつながる場所で誰かと出会うような時間。


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