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仕事にプライドは必要なのか

先日、ハラスメントめいたメール文を複数回送ってこられたユーザ企業役職の方に、文面に関する注意をさせていただいた。

個人批判ではない、と言う前提から始まり、期待を込めて、あえて厳しい指摘をします、といった出だしから始まるものがほとんどで、複数回私のチーム宛に送信されていた。

メーリングリストで出回っているメールなので、複数人に相談したところ、相談した誰もがそのメール文面に関して心を痛ませていた。

そのメールの文面は、あまりに幼稚なその思考が見え隠れしており、叱ってくれる良い上司に巡り合ってこなかったのだろうという所感だった。

また、我々はチーム組織の改善のために参画しており、全体的に味方となって振る舞っていたから、甘えが出たのだろうか。

そのメールの内容は、ちょっとした行の抜けや、エントリ1行の不具合などに、無意味な指摘をスクロールが必要なほどの長文で送ってきていた。なんでそこまで言う?が最初の疑問で、次いで、苛立ちを感じ、業務を円滑に進めることができなくなる、と感じざるを得ない。何をいっても長文で嫌味を返されるからだ。

一方で、当のご本人たちは膨大なプログラムのBugやデグレードを繰り返しており、どの口が言うのだろう?と言う棚上げ上司となっていた。

トドメには、議論の最中に「自分も厳しい指摘を受けたから、同じように指摘しただけだ」と発言されていた。これでは、単なる憂さ晴らしである。

最終的にはリーダーシップやマネジメントの考え方が異なると言う理由でお仕事を継続することを辞したのだが、そういった議論の最中、「仕事に対するプライド」に関して、大事にしているところが違うのではないか、と言う指摘を先方から受けた。

その方が仰るには、ご自身は組織やチームなどを守るためのプライドを重視しており、個人や自分を守るためのプライドを重視していることが納得いかない、ということだった。

つまり、私がメール文面から精神的苦痛を受けていると言う議論の最中、それは自分可愛さのためではないのか?チームメンバーを守りたいだけで言っているのではないのか?と言う指摘だ。

私もチームリーダーとして、メンバーを守る責務があり、従業員も抱える立場であるので、彼らを守る必要があり、それはそうと言う他ない。

同時に、それは組織やチームを守ることにつながる。果たして個人を尊重せず、組織のみを見ているリーダーがその集団をうまくまとめられるだろうか。

個人を甘やかしたいと言うのではない。働く個人に「結果」と言う公平な利益が正しく与えられる組織は、誹謗中傷めいたメールを送ることで実現するとは思えない。

プライドという表現には、誇り以外にも傲慢やこだわり、といったネガティブな意味が込められる。

私は「誇り」を持って仕事をするのは良いことだと思うが、「プライド」を大事に仕事をするのだという考えには至らない。エンジニアとして働く立場として、自身の構築したシステムやプログラムに自信を持ち、その精度に誇りを持ち、耐障害性の高いものづくりをするのだという「誇り」を持ち合わせてはいる。

調査や検証に基づいた設計書や仕様書、プログラム自体に対して、「自分の仕事だ」と言える誇りを持つことは当然であると考える。

ただし、プライドといった、再現性のなく、個人の価値観に委ねられ、揺れ動く精神的なものを仕事の基準にすることはあってはならない。

自分の仕事は「事実の積み重ね」の結果であるし、いわば一種の「芸術」としてその結果は後の世に残されるのだ、という考えで仕事をするというのが私の信念だ。

その信念は、他の個人や、会社や組織といった現実には存在しない法人格のようなものが介在することはない独立した思いだ。

幼稚なメール文面で他者を悪戯に傷つけることを、誇りを持った仕事とは呼べないだろうし、言い訳に満ちた仕事を長く続けることで人生の時間を無駄にはできない。

次に進むためにも、今回の別れは必要だと心から思うのである。

奇遇なことに池澤あやかさんが似たテーマで投稿されていて共感した。


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